篠山紀信「脱がせの帝王」伝説(1)宮沢りえ「嫌な思い出は1つもなかった」

 数々の女優・アイドルらの艶めかしい肢体を「激写」し続けてきた写真家・篠山紀信氏(享年83)が1月4日、老衰のため逝去した。「写真は時代の写し鏡だ」と喝破した篠山氏は、一方で「脱がせ魔」の異名で名を馳せた生涯だった。

 篠山氏が「ヌード写真の帝王」として君臨できたのは、卓越した撮影の技術があってこそだった。篠山氏の技術には凄みがあった。同じ時代を生きた、写真家の加納典明氏が語る。

「オシノ(篠山)は、広告代理店のライトパブリシティの写真部にいた。広告写真はかなりの技術を要する世界だから、オシノはそこで腕を磨いたのだろう。モデル1人あたりに30分と、撮るのも早かったと聞いている。俺の場合は、もうこれ以上出てこないというところまで撮り込むから、違いがあるよね」

 篠山氏とは写真に対する考え方の違いもあったという。

「例えば、俺は女性の体を撮影するのに『世の中、こんなにたるんでていいのか』と、インパクトを追求して撮ってきた。だから極端にエロスを目立つようにしてきたけれども、オシノは時代を含めてシャッターを切る王道だった。写真を社会的な道具としてどう使うかという意識に違いがあって、だから彼がトップを走っていた。よき先輩であり、切磋琢磨できるライバルだったね」

 同年代のライバル写真家といえば、加納氏の他に荒木経惟氏の名も挙がる。1989年10月に発行された「文藝春秋」で篠山氏と荒木氏が対談している。

 荒木氏が自身の撮影手法についてモデルを「写真で犯しちゃう『姦写』」と口にすると、篠山氏はこう切り返すのだった。

「あんたの写真は、絶対読者にあげないんだ。『激写』はポン引き写真ですから。だから僕はお金がもらえる。荒木の写真はひと様が見たって面白くない。実用写真じゃないよね」

 2人の写真観の違い、撮影した作品で読者の欲望を満たそうという篠山氏の心意気が伝わってくる。

 その後、2人は91年、荒木氏が出版した写真集「センチメンタルな旅・冬の旅」(新潮社)に、亡くなった妻の死に顔の写真を掲載したことで是非を巡って論争に発展。以後、疎遠になったとも言われている。

 その91年、篠山氏を語る上で欠かすことのできない、宮沢りえのヌード写真集「Santa Fe」(朝日出版社)が155万部の大ヒットとなった。当時人気絶頂だった宮沢りえがすべてを晒したのである。出版関係者が言う。

「篠山さんは、りえ本人ではなくお母さんにアプローチしました。『18歳になったし、ヌードも撮ったらいい』と。するとトントン拍子に進んで、りえママが『美しい時に撮るべきだ』と口説き落としてくれたといいます。ただし、本人は事前に脱ぐ撮影であることは知らされていなかった。それでもりえは後に『嫌だった思い出は1つもなかった。撮ってみて使いたくなければ使わないという感じでした』と語っている。スムーズに撮影を終えることができたのも、篠山さんの話術あってのことだったのでしょう」

(つづく)

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