武将たちのグルメエピソードを紐解く前に、食材と料理のルーツをたどってみたい。まず主食の「コメ」はいつから食べられるようになったのか。
歴史家の河合敦氏は、弥生時代(約2300年前~1700年前)に米が日本人の主食となったと考えるのは間違いだと指摘する。
「近年の研究で、縄文時代晩期の遺跡から炭化した米や水田跡が発見され、米自体は、弥生以前に、日本列島に入ってきていて、水田の作り方や米作のシステムが大陸から伝わったのが弥生時代。人々が米をメインに食べるようになるのは、ずっと後の江戸時代というのが現在の定説です」
奈良時代には、仏教を基本にした国づくりが行われ、天武天皇は肉食禁止令を出して獣肉を食べることを禁じた。そのため、鎌倉時代には肉の代わりに大豆を原料とする豆腐が中国から伝わり、精進料理や懐石料理に発展していく。味噌、醬油、酢、さらに砂糖などの調味料のほとんどは禅宗の僧侶たちが中国・朝鮮から調理法も含めて伝えたものと言われる。今日のような1日3食という習慣が伝わったのは室町時代と言われ、日本の食の革命が起こったとされる。日本の食文化は、そのほとんどが海外から導入され、それを上手にローカライズしたものだと言えるようだ。
現在、世界中で大人気の日本食の代表は寿司だろう。だが、今日私たちが寿司と呼んでいるにぎり寿司は、江戸末期、文政年間(1818~31)に始まったとされ、その歴史は、まだ200年程度なのだ。再び河合氏の説明。
「『すし』という言葉は奈良時代から記録に残っていて、平安期の『延喜式』という文献にも登場します。これらは今の寿司とはまったく違って、いわゆる塩辛のようなものだったようです。ご飯(コメ)をぬか床にして、魚介や野菜類を漬け込んで自然発酵させた食べ物を『すし』と呼んでいた。これは中国や東南アジアに原型があると考えられています。
江戸時代になると、せっかちな江戸っ子は、酢飯の上にとれたての江戸前の魚(刺身)を載せて食べ始めます。今日のにぎり寿司の始まりです。やがて、屋台のファストフードとして広がっていきます」
肉食は禁止されていたが、「なぜか鳥は食べてもよかった」という。
「鳥を獣肉とは見ていなかったのです。兎も1羽2羽と数えるように、鳥と同類という認識で食べていました。戦国時代にヨーロッパの宣教師たちが入ってくると、再び肉食が広がりを見せ始めます。例えば平戸の大名・松浦鎮信は、イギリス人に牛肉や豚肉料理を作らせ、キリシタン大名の高山右近も小田原攻めの陣中で蒲生氏郷や細川忠興に牛肉料理をご馳走しています。『耶蘇会士日本通信』には、宣教師ガスパル・ビレラが豊後府内において信者400人を招いて、牛一頭分の肉と共に煮た飯を振る舞い、皆喜んで食べたとあります」(河合氏)
戦国好き芸人の桐畑トール氏が付け加える。
「肉食禁止は、あくまで身分の高い人で、下級の武士や農民は、戦国時代には何でも食べていたと思います。大坂冬の陣の遺構が発掘された際、牛や馬の骨が大量に出てきました。矢玉に当たって死んだ馬などは、結局食っていたんですね」
河合氏が続けて解説する。
「江戸時代初期にはけっこう犬を食べていたようです。兵法家の大道寺友山が著した『落穂集』には、“武家町家とも、しもじものたべ物には犬にまさりたる物これ無しとて”犬を見つけては、武家も町人も犬を食べていたとあります。こうした犬食を含む獣肉食を一掃したのが、5代将軍・徳川綱吉でした。綱吉の発した『生類憐れみの令』は、犬をはじめ生き物の極端な保護令で、一旦、江戸では獣肉食が消滅しますが、19世紀前半、世の中が豊かになってくると、いわゆるジビエ料理が流行して、『ももんじ屋』と呼ばれる獣肉専門料理店が登場します。猪肉は“山鯨”、鹿肉は“紅葉”などと隠語で呼ばれていました」
河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊:「日本三大幕府を解剖する」(朝日新書)。
桐畑トール(きりはた・とーる)72年、滋賀県出身。お笑いコンビ「ほたるゲンジ」、歴史好き芸人ユニットを結成し戦国ライブ等に出演、「BANGER!!!」(映画サイト)で時代劇評論を連載中。
永山久夫(ながやま・ひさお)32年、福島県出身。食文化史研究家。古代から明治までの食事復元研究、長寿食研究の第一人者。大河ドラマ「春日局」などの食膳の時代考証なども担当。著書に「たべもの戦国史」「武士のメシ」等多数。