1958年4月5日、後楽園球場は4万5000人の大観衆で膨れ上がっていた。4連覇を狙う巨人の開幕戦だ。相手は前年4位の国鉄(現ヤクルト)。13時半試合開始。
この試合で22歳の黄金ルーキー・長嶋茂雄は「3番・三塁」でスタメン出場した。一軍デビューである。
国鉄の先発は24歳の左腕・金田正一だ。前年最多勝(28勝)と最優秀防御率(1.63)のタイトルを初めて獲得していた。それまで7年連続で20勝をマークしている大エースである。この時点で通算182勝だ。
当日朝、スポーツ紙のみならず、一般紙も金田に挑む長嶋の話題で埋まっていた。どの社も2人の対決を煽っている。シーズン幕開けを飾る最高の話題である。
某社に掲載された1枚の写真。背広に着替えた長嶋が中堅左翼寄りの最深部で、ユニホーム姿の金田と会話を交わしている。
長嶋が「明日はここへ叩き込ませてもらいます」と言えば、金田は「いや、なかなかそうはさせません」と応じている。
結果は今でも語り継がれている。長嶋の4打席4連続三振だ。
1回裏、1番・与那嶺要が三振、2番の広岡達朗も三振に倒れた。早くも異様な雰囲気である。長嶋がバッターボックスに向かうとスタンドが沸いた。
初球の真っすぐをフルスイングしたが空振り、2球目はカーブを見逃してストライク、3球目はカーブが外れた。4球目は内角へ切れのある真っすぐだ。バットが空を切った。
第2打席は4回裏。初球、2球目はボール、3球目は避けたバットにボールが当たってファウルとなる。4球目はボールで5球目を空振り、そして6球目の外角高めのカーブに手を出すが、またも空振りとなる。
第3打席は7回の無死一、二塁。チャンスだが真ん中高めの速球を空振り、内角低めのカーブを空振り、外角低めの速球を空振り、バットに当たらない。3球三振だ。
第4打席はボール、ボール、見逃しのストライク、ボールで3─1、しかし第2打席を再現するように5、6球目を連続空振りして三振だ。
金田が長嶋に投じたのは4打席で計19球、空振りを9つ奪っている。バットに当てられたのはわずか1球。圧巻の投球だった。屈辱のデビュー戦となった。
試合は金田と藤田元司の投げ合いとなり、0─0で延長戦に入った。国鉄は11回表に町田行彦の3ランなどで一気に4点を挙げる。金田は巨人のその裏の反撃を1点に抑えて完投勝利。巨人は14三振を喫した。
長嶋は「御覧の通りです。ボクに力がないからああいう結果が出たんです」と語った。
金田は初対決を見据えてキャンプから厳しい訓練を重ねていた。
「三振を取ってやろうという思いより脅かすつもりだった。世の中にこんな球があるのかという球を見せたかった」
と振り返っている。大学出の新人にプロの先輩としてのプライド、意地があった。長嶋は翌6日の第4打席でも、リリーフで登板した金田の前に再び三振を喫する。5打席連続三振だ。
野村克也はこの日、駒澤球場での東映(現日本ハム)対南海の開幕戦に臨んでいた。14時半試合開始。もちろん巨人戦のテレビ中継は見ていない。長嶋が金田に4三振を喫したと聞いた時、最初は「見逃しの三振だろう」と思ったという。しかし、ラジオ中継を聴いていたマネージャーが「全部空振りの三振だった」と伝えた。驚くしかなかった。
「これは本物だ」
オープン戦で対戦した際には、そのスイングスピードの速さにビックリした。とはいえ、金田のカーブは打者の顔のあたりから鋭く落ちてくる。慣れていなければ、バットを振るどころではない。そんなカーブの後に当時150キロは出ていたという真っすぐを投げられたら、新人には手に負えない。だが、振ったのだ。金田が「(長嶋の)あの振りは素晴らしい」と褒めたが、社交辞令ではない。果敢に向かってくる長嶋に脅威を覚えたのだ。
長嶋の「三振さえ絵になる男」の原点だ。
猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。
*週刊アサヒ芸能12月15日号掲載