53年11月23日、18歳の野村克也は大阪球場で南海(現ソフトバンク)の入団テストを受けていた。もちろん合格したのだが、1本の本塁打が決め手となった。
35年6月29日、野村は京都府竹野郡網野町(現・京丹後市)で生まれた。父親が早くに亡くなり、母親のふみが女手一つで3歳年上の兄と野村を育てた。
よく知られている話だが、家が貧しかったことで小学1年生から兄とともに新聞配達やアイスキャンディ売り、子守りなどアルバイトをして家計を助けたという。
運動神経抜群の野村少年は球技に夢中になる。三角ベースでボールを追った。中学2年時には野球部で「4番・捕手」として活躍した。3年時も奥丹後地区予選で優勝、京都府大会では4強まで進出した。
「将来、プロ野球選手になりたい」と誓うのは当然だったろう。本人は高校進学を希望したが、母は就職を望んだ。家計に余裕がなかったのである。
助け舟を出したのが兄だった。母親を何度も説得して、進学の許しを得た。京都の峰山高校に入学する。母親に内緒で野球部に入った。すぐに「3番・捕手」である。手首を強化するため一升瓶に砂を入れて振った。創意工夫の日々。「プロ野球選手になって大金を稼いで母を楽にしたい」の思いからだった。
峰山高時代は甲子園出場がなく、スカウトの目に止まることもなかった。
高校3年になるとプロ野球12球団のメンバー表を見て、チーム事情を入念にチェックした。確実に入れそうな球団を探した。
狙いは捕手陣が手薄で高齢化しているチームだった。この頃から「ID(データ重視)」だったようで、野村らしい。
探し出したチームは南海だった。実は野村少年は巨人が憧れだった。川上哲治のファンだった。しかしメンバー表には藤尾茂の名前があった。将来性抜群で1歳年上である。
スポーツ新聞に南海の新人募集の広告が載った。峰山高校の野球部長が南海・鶴岡一人監督(当時は山本)に推薦の手紙を送った。「テスト受けるように」と返事が来た。結果としてこれが縁となった。約300人が受けて7人が合格した。4人が捕手だった。
前年の52年。2年生の野村は夏の京都大会・花園高との1回戦で、左中間を破るランニング本塁打を放っている。この時、偶然にも鶴岡監督が観戦していた。「ええ腰をしとるわ」と印象を残している。
鶴岡が「壁(ブルペン捕手)くらいには使えるだろう。取っておけ」と話したエピソードは有名だが、野村の腰が入った打撃を記憶していたのだろう。当落スレスレだったようだが〝逆転本塁打〟となった。野村もまた高校3年間で放った本塁打はその1本だけである。
長嶋と野村をプロ入りへと導いたのはバックスクリーンとランニングの違いはあっても1本の本塁打だった。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。
*週刊アサヒ芸能11月24日号掲載