時代は下って、江戸、幕末、明治の有名人たちの〝懐事情〟を探っていけば‥‥。
八代将軍徳川吉宗は、400億円の身代ながら、厳しい倹約令を出して幕政改革を推進。家臣や領民にも質素倹約を求め、自らも真冬でも木綿の着物1枚で過ごすなど、率先垂範。質素に暮らし、自分のために幕府の金を使うということはほとんどなかったという。
吉宗が取り立てた人物に江戸町奉行・大岡越前がいる。人情あるお裁きで知られ「目安箱」を設置。貧民救済のために小石川養生所を開設したり、町人による消防である町火消を組織するなど吉宗の命令を実行した大岡越前守忠相。その稼ぎは、3000石、1億8000万円の高給取りだった。歴史家の河合敦氏によれば、
「江戸町奉行所は、現在でいえば警視庁と裁判所、消防署、さらに東京都庁などの役所を兼ね、南町奉行と北町奉行が月交代で江戸のさまざまな事案に対応する超多忙な部署ですが、忠相は長年町奉行を勤め上げ、やがて寺社奉行に抜擢され3000石から一気に1万石(6億円)の大名になっています。当時の代々の石高と役職は比例していて、3000石クラスの人が町奉行に就任することになっている。例えば目付なら5000石と決まっていました。ところが吉宗の改革では、500石の者でも3000石の町奉行になれる『足高の制』を採用。その役職に在任中のみ、石高を引き上げ、退任後は元の石高に戻す制度で、石高が低くても優秀な人材を引き上げることが可能になりました」
天保年間に町奉行になった「遠山の金さん」こと、遠山金四郎景元は、元々500石の旗本だったが、足高の制で町奉行になってから、3000石になったと考えられる。
長谷川平蔵は、池波正太郎原作の「鬼平犯科帳」の主人公・鬼平のモデルで、実在の人物。年収は1500石で、約9000万円。火付盗賊改方として強盗や放火犯などを捕まえるだけでなく、人足寄場という犯罪者の更生施設を石川島(中央区佃2丁目)に作り、自立更生を促したことでも知られる。歴史芸人・桐畑トール氏の解説。
「中村吉右衛門さん演じる鬼平は、情報収集のために元盗賊だった人たち(梶芽衣子さんとか、三代目江戸家猫八さんとか)を密偵で雇って、あちこちで捜査のために蕎麦や鍋を食べていますが、その経費が全部自腹だったとしたら、給料だけでは厳しかったんでしょうね(笑)。火付盗賊改方の長官というのは、たいてい1〜2年でチェンジしていくのに、平蔵だけは配置換えされずに、8年もやらされ、俺はもう出世はムリだって落ち込んでいたなんて話もありますね」
忠臣蔵の大石内蔵助は、赤穂藩4万石にあって年収は250石(2500万円)。浅野内匠頭が江戸城松の廊下で起こした刃傷沙汰で赤穂藩がお取り潰しになる時、藩の財産を処分して藩士たちの退職金に充て、討ち入りのために700両(7000万円)だけは手元に残し、大石はその使い道を几帳面に記録(預置候金銀請払帳=あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)していた。
桐畑氏が言うには、
「その記録のおかげで、当時のモノの値段がわかりますね。上方から江戸の往復で約10万円、浪士たちが潜伏していた江戸の長屋の家賃が約6万円、今の風呂付き木造アパートの家賃とあまり変わらないとか」
忠臣蔵など江戸庶民の話題となった事件は、歌舞伎や講談になって、いつしかその給金が年に1000両にもなる人気スターが誕生する。市川團十郎(二代目)は、1721(享保6)年に文字通り「千両役者」と呼ばれる高給取りの第1号だ。江戸中期の1000両は、1両=6万円で換算すると約6000万円になる。
幕末の幕閣、勝海舟は、軍艦奉行の給料が2000石(2000万円)だ。
「勝は金儲けの仕組みを知っており、神戸の土地は値上がりするから買っておけとか、お茶の需要を見越して静岡の牧之原を開拓して茶畑にするのを勧めたりしたといいます」(河合氏)
幕末京都の治安に当たった新選組局長・近藤勇の月給は50両(50万円)、年収は600両(600万円)。少ない気もするが、当時の職人などの労賃からすれば、1両=10万円ほどの価値があったとも言われ、実感的には年収6000万円くらいだったのかもしれない。
対する坂本龍馬の年収60両(60万円)は、いくら脱藩浪人とはいえ、目を疑うような少なさではないだろうか。河合氏が解き明かす。
「海援隊の給料は確かに60両ですが、彼のお金に対する執着はすごかった。同郷で三菱の創始者の岩崎弥太郎にはしょっちゅうお金をせびっていました。また、紀州藩の船に当てられて沈没した『いろは丸事件』の時は、岩崎や土佐藩、紀州藩を巻き込んで強力に賠償を迫り、莫大な金額(164億円)を要求しています。ただこの賠償金を受け取る前に龍馬は死んでしまいますが。会社を作って瀬戸内海を通る船から通行税を取る計画もありました」
龍馬のお金についての交渉術は半端じゃなかった。
明治時代、参議になった大久保利通の年収は7200万円。明治新政府の役人として、けっこうな給料を得ていたが、大久保の死後には年収を上回る8000万円の借金だけが残った。
大久保の盟友だった西郷隆盛が陸軍大将の時の給料が6000万円。
「当時ヨーロッパでは軍人の給料は高給だったので、欧米からバカにされないようにと高給を支払っていたようです」(河合氏)
初代総理大臣・伊藤博文の年収は9600万円だ。
「伊藤の別邸(横浜市指定有形文化財 旧伊藤博文金沢別邸)が横浜・金沢八景にあります。一説には愛人宅だったとも言われていますが、本当だとしたら愛人に、あんな立派な別邸を建てられたのかと‥‥。おそらく、給料以外にも別の収入源があったんでしょうね」(桐畑氏)
現下の物価高を乗り切るには吉宗のように節約に励むか、はたまた「金」を掘り当てるべく、転職に、サイドビジネスにチャレンジするかは悩ましい限りだが、「それにつけても金の欲しさよ」は、いつの時代にも通用するキラーフレーズであることは疑いがないようである。
【「江戸・幕末・明治」傑物12人の年収ランキング】
記載項目 順位・氏名:当時の基本収入(カッコ内は現在価値への換算レート)/現代換算年収(1石=15万円)/備考
1位・徳川吉宗:79万8800両(1両=5万円)/399億4000万/松平健主演の「暴れん坊将軍」のモデルとなった徳川八代将軍。幕府財政の改革に努めた
2位・大岡忠相:3000石(1石=6万円)/1億8000万円/江戸町奉行「大岡越前」のモデル。町奉行から寺社奉行になり、1万石の大名となった
3位・伊藤博文:9600円(1円=1万円)/9600万円/1885〜1888年の内閣総理大臣としての月給800円×12カ月で算出
4位・長谷川平蔵:1500石(1石=6万円)/9000万円/「鬼平犯科帳」の鬼平のモデル。火付盗賊改方を務め、町人にそばを振る舞うなど、経費がかさんだ
5位・遠山金四郎(景元):3000石(1石=3万円)/9000万円/時代劇「遠山の金さん」のモデル。水野忠邦の失脚後、南町奉行に。元々の石高は500石
6位・大久保利通:7200円(1円=1万円)/7200万円/実質的な明治維新政府のトップとして「富国強兵」「殖産興業」を推進。参議という役職の給料
7位・市川團十郎(二代目):1000両(1両=6万円)/6000万円/享保年間に大人気となり、給金が1000両を超えたことから、「千両役者」の語源となった
8位・西郷隆盛:6000円(1円=1万円)/6000万円/明治新政府で、陸軍大将だった1872年の月給が500円。その12カ月分として計算
9位・大石内蔵助:250石(1500石÷6×10万円)/2500万円/祖父からの遺領の石高が1500石。吉良邸への討ち入り費用は700両(7000万円)とも言われる
10位・勝海舟:2000石(1石=1万円)/2000万円/徳川慶喜の下で軍艦奉行を務めていた時の給料が2000石と言われる(「海舟余波」江藤淳著)
11位・近藤勇:600両(1両=1万円)/600万円/新選組局長。副長の土方歳三は480万円、沖田総司や斎藤一は360万円
12位・坂本龍馬:60両(1両=1万円)/60万円/龍馬が創設した「海援隊」からの収入。隊員には月5両、年60両の給料が支払われた
(時代劇や大河ドラマでおなじみの人物を選定、「暴れん坊将軍」で知られる八代将軍徳川吉宗を例外として、将軍、大名、大商人、経済人などは対象外とした)
*江戸時代~明治時代の換算レート 1両=1石=1円=現在の1万円を基本とする時代ごとの換算レート
・江戸初期 1両=1石=現在の10万円
・江戸中期 1両=現在の6万円
・江戸後期 1両=現在の3万円
・幕末 1両=現在の1万円
・明治初期 1両=1円=現在の1万円に換算
桐畑トール(きりはた・とーる)72年、滋賀県出身。お笑いコンビ「ほたるゲンジ」、歴史好き芸人ユニットを結成し戦国ライブ等に出演。「BANGER!!!」(映画サイト)で時代劇評論を連載中。
堀江宏樹(ほりえ・ひろき)歴史エッセイスト。77年、大阪府生まれ。早稲田大学仏文学科卒。日本史、世界史を問わず「乙女の日本史」(東京書籍)、「本当は怖い世界史」(三笠書房)など著書多数。
河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊「徳川家康と9つの危機」(PHP新書)。
*週刊アサヒ芸能11月3日号掲載