新日本プロレスVS全日本プロレス「仁義なき」50年闘争史【3】マット界の孤児になった猪木の旗揚げ

 1971年12月13日、会社乗っ取りのクーデターを画策したとして日本プロレスを追放されたアントニオ猪木は、翌日に記者会見を開いて「会社をよくするために私と馬場さんが中心になって全選手が手を握った。それを途中で何を誤解したのか、私と木村(昭政=猪木後援会会長で日プロ改革を推進した経理士)が乗っ取りを策したことになってしまった。経理面に不明な点が数多く発見されたために追及されるのが怖くなっていろいろな手を使って選手を懐柔して、私と木村を消そうとしたのではないか」と反論した。

 だが、当時のマット界は日本プロレスの天下。デイリースポーツ以外のスポーツ紙は日プロ寄りで、猪木の主張が大きく取り上げられることはなく「猪木の乗っ取り計画失敗」という論調が大勢を占めた。

 当時のプロレス団体は日プロと国際プロレスの2団体時代。日プロを追放されたとなれば国際に行くしかないが、猪木は東京プロレス社長時代の67年1月に合同興行を開催した際にギャラで揉めた過去があり、国際の吉原社長は「レスラーとしての猪木の実力は高く評価するが、人間としての猪木はまったく信用できない。絶対にウチのリングに上げることはない」と明言。猪木は日本マット界の孤児になってしまった。

 四面楚歌になっても、前向きに行動を起こすバイタリティを持っているのが猪木という男だ。猪木のもとにはクーデター騒動時に体を張ってガードしてくれた山本小鉄、ユセフ・トルコが馳せ参じた。さらに猪木はトルコの付き人だった木戸修、自分の付き人だった藤波辰巳(現・辰爾)に声をかけた。メキシコ遠征中の北沢幹之(魁勝司)、柴田勝久には自ら現地に出向いて協力を要請。2人とも東プロから行動をともにしてきた選手だ。

 こうして選手を揃えた猪木がまずやったことは道場の建設だ。「プロレスラーには、まず練習場が必要だ」と、150坪ある世田谷区野毛の自宅の庭を潰して道場を建て、自宅は選手の合宿所にした。工務店を経営していた木戸の父親が道場建設のリーダーとなり、藤波らも手伝ったという。

 年明け72年1月13日には資本金1000万円で新日本プロレスリング株式会社を登記。前年11月1日に総額1億円と言われた豪華結婚式を女優・倍賞美津子と挙げた猪木に資金はなかった。

「当時、蒲田の方に知り合いがいて、鉄工所とかをやっているおじさんから100万円ずつ集めて、たぶん1000万円ぐらい集まって、それを資金にしましたね」と猪木は振り返る。それにしても日プロを追放されて1カ月で新団体を立ち上げたのだから大したものだ。

 1月24日に京王プラザホテルで新日本プロレスの設立を発表し、同月29日には道場開き。リングは蒲田の鉄工所に作ってもらった。

 こうして団体の体裁は整ったが、当時のプロレス団体はテレビ局のバックアップ(放映料)がないと無理と言われていた時代で、テレビなしでの旗揚げは前途多難が予想された。

 さらに外国人招聘ルートの開拓も困難を極めた。日プロはNWAのメンバーであり、馬場の人脈でWWWF(現WWE)とのつながりも深く、国際はAWAと業務提携をしていたから新日本の入り込む隙間はなかったのだ。まだ「プロレスの本場はアメリカ」と言われていた時代で、アメリカの一流選手を呼べないのは痛かった。

 結局、猪木が頼ったのは師匠のカール・ゴッチ。日本では〝無冠の帝王〟とか〝プロレスの神様〟と崇められたゴッチだが、米マット界では異端児扱いされていて、無名の選手しか呼べないのが現実だった。

 テレビもなく、有名外国人がいない状態で3月6日に大田区体育館(現・大田区総合体育館)で旗揚げ。サプライズは67年1月の東プロ崩壊の際に喧嘩別れした大先輩の豊登が花束を持って駆けつけ、猪木の要請で電撃復帰したことだ

 この豊登の復帰は、東プロの営業本部長だった新間寿が猪木の依頼を受けて仕掛けたもの。豊登は2月から新日本の道場で復帰に向けて練習していた。セミファイナルに出場した豊登は、山本小鉄とのコンビでドランゴ兄弟に勝利して、観客を喜ばせた。

 メインイベントは猪木vsゴッチ。クラシカルなチャンピオンベルトを巻いて登場したゴッチは「これこそが初代王者フランク・ゴッチから伝わる真の世界チャンピオンベルト。私に勝ったら贈呈しよう」と宣言。それは62年9月11日にコロンバスでドン・レオ・ジョナサンから奪取した米オハイオ版AWA世界ヘビー級ベルトだった。新日本は、もはや認定する団体がないベルトを最高権威、ゴッチを実力世界一と位置付けてスタートしたのである。

 試合はゴッチがリバース・スープレックスで勝利し、猪木の目標は〝打倒!ゴッチ〟になった。ここにNWAやAWAなどの既存の権威と一線を画した実力主義のストロング・スタイルが誕生した。

小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。

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