世界の福本豊 プロ野球“足攻爆談!”「西武・森友哉は罰が当たったんや」

 元ミズノのグラブ職人、坪田信義さんが4月3日に89歳で亡くなられた。僕はプロ入り2年目からグラブを作っていただき「名人」と呼ばせてもらっていた。ゴールデングラブ賞を12回獲得できたのも、そのグラブのおかげやった。

 ミズノがアメリカで認知されていない時代から現地に足を運び、商品をアピールしていた。違うメーカーを使っている選手からの修理依頼も快く引き受け、その技術にメジャーリーガーたちも感服。日米で多くの選手が慕っていたが、こだわりの強いイチローも坪田さんのグラブにほれ込んだ一人やった。

 今、自宅にあるのは、受賞歴や記録を刺繍した記念グラブだけ。名人がミズノを退社する時に、山田久志と僕に特別に作ってくれたもの。阪急ブレーブスは特にミズノとつながりが深かった。当時はデサント製のユニホームを使用する球団が多数派だったが、阪急はミズノのものを採用。僕も入団1年目からミズノのグラブを使った。

 入団当初の憧れは、大リーガーが多く使用していたローリングス製のグローブやった。でも、坪田さんの作ってくれたものを手にはめると、そんな思いはなくなった。毎年オフに細かいリクエストを伝えると、要望どおりに新しいグラブを作ってくれた。ほんまは一つのグラブを修理しながら長く使いたかったけど、僕は頼まれると断れない性格。知人に「福ちゃんの使っているグローブをチャリティー用にちょうだい」と言われると、仕方なく提供していた。だから毎年、名人に新しいグラブを作ってもらい、一から手になじませないとアカンかった。

 僕がこだわったのは軽さやった。打球を追いかけるスピードが落ちないようにしたかった。綿の部分を抜いて軽くして、それでいて打球に負けない芯のしっかりしたものを作ってくれた。網の部分は横に2本、縦に1本だけ通して、構えた時にグラブ越しにボールが見えるようにした。外野用やから通常より長め。握力が弱いから、小指と薬指を一緒に入れて、ボールを挟むように使った。そうするとポケットの部分も深くなって、ボールが飛び出さなくなった。

 新しいグラブは打撃マシンの球を捕って手になじませていくんやけど、名人の作ってくれたのものは革も柔らかく、すぐに使えるようになった。シーズン中は表面は油、中は自分の唾で潤いを与えた。丁寧に作ってもらったものをこちらも大事に扱った。商売道具を粗末に扱う選手にいい選手はおらん。

 名人が亡くなった3日、西武の森友哉が皮肉な原因で登録を抹消された。2日の試合で途中交代となり、ロッカールームでマスクを投げた際に右人差し指を骨折したという。辻監督は「許されることではない」と怒っていたけど、ほんま言語道断。罰金を取られても仕方がない。誰でもカッとなる時はあるけど、道具に当たってケガするなんて考えられん。打つほうだけでなく、正捕手として守りの要。自分の置かれた立場を考えて、行動しないといけない。

 森みたいに道具を粗末に扱って罰当たりなことが起きると、「野球の神様」はやっぱりいるんやと思ってしまう。僕は坪田さんのグラブと出会えて幸せやったし、道具の大事さを教えてもらった。時代が移り変わっても、手作りの名人芸に勝るものはない。

福本豊(ふくもと・ゆたか):1968年に阪急に入団し、通算2543安打、1065盗塁。引退後はオリックスと阪神で打撃コーチ、2軍監督などを歴任。2002年、野球殿堂入り。現在はサンテレビ、ABCラジオ、スポーツ報知で解説。

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