信頼と実績の漫才師といえば中川家。兄弟漫才師のトップランナーで、サンドウィッチマンやナイツらと同じく、売れても板の上に立ち続ける姿勢にブレがない。
剛&礼二が芸人ならではの着眼点や着想を身につけたルーツは、裕福といえない家庭環境にある。住んでいたのは、父が勤めていた運送会社の社宅。6畳と4畳半の風呂なしアパートだった。父は超がつくほどの節約家で、ミニカーさえ買ってくれなかった。そのため、中川家は自分の手をミニカーに見立てて遊ぶことを覚えた。“大阪のおもろいオッサン”をひたすらウォッチングしてツッコむことを覚えたのも、おもちゃがなかったから。お笑いの才はこうして芽生えた。
「お父さんは“代替の天才”だったそうです。中川家に与えた自転車は、氷屋のおんぼろリヤカー。ワイヤーなどで補修したものでした。自分が身に着ける数珠を手作りしたこともあったそうで、うれしそうに両手を振ると音が鳴ったので、中川家が『何それ?』と聞くと、直径2~3cmのクルミだった(笑)。ゴムを引っ張って、『首にもいけんねん』とネックレスにしたこともあったとか」(週刊誌記者)
小学生のとき、ずっと頼み込んでいた野球のグローブをようやく買ってもらえた。しかし、よく見るとサインペンで「井上」と書かれていた。他人のお下がりだった。
父は、直射日光を遮るおしゃれなサングラスをかけていたことがある。それも0円で手に入れた。ある日近所の淀川を散歩していると、水面にプカプカ浮いているサングラスを発見。川に流されて、岸辺にたどりつくのを待ってキャッチした“エエもん”だった。
「中川家から『遊園地に連れて行ってほしい』とおねだりされたとき、お父さんが見せた行動は秀逸でした。ジェットコースターと観覧車が見える駐車場に連れて行き、手作り弁当を広げて食べたのです。お父さんいわく『ジェットコースターに乗りたいとは言ってへん』(笑)」(前出・週刊誌記者)
そんな両親が80歳近くになって初めて手にしたのが、携帯電話。しかし、慣れない高級品のため大事にしすぎて、金庫で保管。着信音が鳴るたびに、暗証番号を押して開錠しなければならないため、しまうこともしばしば。中川家は、実家の固定電話にかけ直す二度手間が当たり前だった。
関西が生んだ最強兄弟漫才師は、金がないことでアイデアを生産し、話術と見る目を養った。父の倹約はムダではなかったのだ。
(北村ともこ)