お笑いタレントが民放の情報番組でコメンテーターを務めることが珍しくなくなった。まれに、雨上がり決死隊や小籔千豊、麒麟・川島明のように、芸人が世相を斬ることに疑問を感じて降板を申し出ることがある。また、オリエンタルラジオ・中田敦彦のように、番組終了を機にその座から降りることもある。浮き沈みが激しいなか、カンニング竹山だけはポジションを堅守しつづけている。
かつては「ビビット」(TBS系)の月曜日レギュラーを務め、フジテレビでは「直撃LIVE グッディ!」の水曜パネラーでもあった。同番組終了後は、時間枠拡大となった坂上忍の「バイキングMORE」の水曜レギュラーにスライド。「ノンストップ!」の金曜レギュラーも依然としてキープしている。
“芸人コメンテーター”という新たなポジションを作り出した竹山。インテリな部分がある反面、大好きな町は東京・中野と庶民的。中島忠幸氏(故人)と組んでいたコンビ「カンニング」誕生の地だからだ。
「地元の福岡県から上京して、西荻窪、高円寺の次に住んだのが中野。およそ20年間も住みました。サンミュージックがお笑い部門『GET』を立ち上げ、ブッチャーブラザーズがなかの芸能小劇場で月1ライブ『東京ビタミン寄席』を開催すると、竹山が放送禁止用語を言いまくる漫才でプチブレイク。その模様が中野ケーブルテレビ(現・ジェイコム中野)で放送されると、客が増えはじめ、『エンタの神様』(日本テレビ系)の関係者の目に止まったのです」(芸能ライター)
大人気ネタ番組に出て、ようやくチャンスをつかんだ矢先の04年、中島が急性リンパ性白血病で闘病生活に入り、06年12月20日に帰らぬ人になった。竹山はソロのタレントとして、「カンニング」の冠を一人で背負った。
2人は、高校時代の同級生。コンビを組んだのは、竹山が21歳のとき。アルバイトと借金に明け暮れ、夜中に中野サンプラザを見上げながら2人で駅前広場で稽古。中野サンプラザのなかに入っているホテルを見上げながら、「いつかあのホテルに泊まりたいなぁ」と漏らし、人気芸人になれる日を夢見た。
「中野サンプラザと目と鼻の先に有名な老舗総菜屋があります。中野駅北口から徒歩1分のところにあるここで、中島はアルバイトをしていました。売れる直前には、店長に昇格。同じ商店街にあるお菓子屋で働いていた女性と交際して、結婚。男児をもうけました。中野は、中島の運命を変えた町でもあったのです」(前出・芸能ライター)
カンニングを振り返るうえで欠かせない中野。「GET」からはその後、メイプル超合金やぺこぱといった大人気芸人が生まれたが、「東京ビタミン寄席」はコロナ禍で今年6月に惜しまれながら終了。昨年3月に中野サンプラザで予定されていた竹山の単独ライブはコロナ禍で中止になったが、古いファンからは「最後に聖地でライブを」というラブコールが後を絶たない。
というのも、中野サンプラザは今後、駅前の再開発に伴って解体となる見込みだからだ。ソロのマルチタレントとなった竹山、漫才コンビのカンニングにとって、中野が第二のふるさとであることに変わりはないのだ。
(北村ともこ)