天才テリー伊藤対談「都倉俊一」(3)海外では批評家に泣かされましたよ

テリー そういう状況は、本人たちも把握していたんでしょうか。

都倉 当時は忙しすぎて、そういう判断をする余裕はなかったでしょうね。あと、彼女たちには相馬一比古という非常に優秀なマネージャーがついていたんですが、彼がいちばんやりたかったアメリカ進出を、そのタイミングで着手してしまったんです。

テリー 当時は「ついに全米デビュー」と騒がれていましたけど‥‥。

都倉 当時の日本のアイドルのコンセプトが、そのまま海外で受け入れられるわけがないんです。かなり無理をしてテレビのレギュラー枠を取ったりしたので、いちおうピンク・レディーのことはみんな知っているんです。でもね、英語力にも限界があるし、いわゆるバラエティー的なノリでしたね。僕はちょっとむなしい気分でその状況を眺めていました。

テリー 結局、アメリカ進出の夢は破れて、ピンク・レディーは81年に解散を迎えます。それと入れ替わるように、その頃、都倉さんも活動の拠点をアメリカに移されますよね。

都倉 実はピーク時、26人のアーティストを抱えていて、その他に単発のCMソングやドラマ主題歌を抱えてしまうと、本当に寝る暇がなかったんですよ。そうすると、自分が本当にやりたいグランドオーケストラやボストンポップスみたいなものが全然やれないものですから。

テリー やりたいことをやるために、意を決したわけですね。

都倉 またちょうど、音楽業界にコンピューターが進出してきて、デジタル録音など、システム的にも革命的な変化が起き始めたところだったから、勉強という意味でもアメリカで過ごした3~4年は、とても有意義でした。

テリー 聞けば聞くほど華やかな経歴ですけど、今まで挫折を経験されたことなんてあるんですか。

都倉 もちろんですよ。やっぱり海外のエンターテインメント、例えばブロードウェイあたりを主戦場にするのは難しいですね。本格的なミュージカルなんてやろうものなら、もう批評がケチョンケチョンでして(苦笑)。

テリー 向こうでは、批評がそこまで大事なものなんですか。

都倉 そうです。実はブロードウェイの売り上げの半分は観光客なんですよ。自由の女神に行くようなツアーの流れの中に、ブロードウェイ鑑賞も組み込まれているわけ。だから「ブロードウェイのお客の目は肥えている」なんて、ちょっとオーバーですね。しかも、代理店がどのショーをツアーに入れるかは批評記事を参考にしますから、評論家が絶大な力を持っているわけです。けなされた時点で、7割は失敗が決まっちゃう。

テリー 都倉さんもそれを経験されたわけですね。

都倉 94年にロンドンのメジャーシーンでミュージカルをやった時、歌や演者に触れず、テーマに掲げた長崎の原爆問題だけにかみつかれた時は、もう頭に来ました。そういうことを何度も経験しましたから。

テリー そういう状況の中では、日本の歌謡界の様子なんかは気になりませんでしたか。

都倉 僕がアメリカに行っていた頃、ちょうど松田聖子や中森明菜なんかが売れ始めたじゃないですか。実際、曲の依頼もありましたが、断ってしまったんですよね。「やっておけばよかったなァ」って、いまさら後悔しているんですよ(笑)。

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