天才テリー伊藤対談「都倉俊一」(1)大学時代は朝から晩までスタジオに

都倉俊一(とくら・しゅんいち)1948年、東京都生まれ。4歳の頃からバイオリンを習い、小学生・高校生時代をドイツで過ごし、音楽の基礎を学ぶ。学習院大学時代に中山千夏「あなたの心に」で作曲家デビュー。70年代にはピンク・レディーや山口百恵などの曲を手がけヒットを連発。NHKの「レッツゴーヤング」の司会や「スター誕生! 」の審査員も務めた。83年、音楽活動の拠点をロサンゼルス・NY・ロンドンに移し、ミュージカルの制作を手がける他、2010年に日本音楽著作権協会会長に就任(現在は特別顧問)。15年、横綱審議委員会委員に就任。同年、CIAM世界音楽創作者評議会執行役員に就任。またAPAMアジア・太平洋音楽創作者連盟会長に就任。17年「第68回NHK紅白歌合戦」より、「蛍の光」の指揮者に就任した。18年には、文化功労者として顕彰を受ける。

 山本リンダ「どうにもとまらない」、山口百恵「ひと夏の経験」、ピンク・レディー「UFO」などなど、まさに国民的ヒット曲を数多く手がけてきた作曲家・都倉俊一氏。早熟なデビューからヒット曲の思い出、現在の音楽事情から秘めた夢までを、天才テリーに語り尽くした!

テリー なんと今年で作曲家活動50年だそうですね、ビックリしました。

都倉 ええ、あんまり言いたくないけど(苦笑)。最初に手がけた中山千夏さんの「あなたの心に」が69年9月に発売。大学3年の時からやっています。

テリー 学習院大学の一学生が、どうして作曲家になれたんですか。

都倉 僕が大学生の時に、ちょうどレコード会社が続々と設立されてね、まさに音楽業界の勃興期。そうすると、現場の人手が足りなくなるわけです。

テリー 即戦力として投入されたわけですよね。

都倉 4歳の頃からバイオリンを習っていたから、譜面が読めて、学生バンドもやっていましたから。で、ポニーキャニオンの前身にあたる「ポニーパック」というカセットテープの制作会社が、当時「音なし歌謡曲」、今のカラオケみたいなものを作っていまして、洋楽のヒット曲を簡単なオーケストラでリアレンジしたものを1日に十数曲も作るんですよ。偉い先生ならそういう仕事に1曲2〜3万円かかるところを、僕なら3000円ぐらいで済んじゃうから、そういう仕事がたくさん来ちゃってね。

テリー すごいですね。学生の立場で、いきなりそんな大事な仕事を任されたんですか。しかし、1日に十数曲となると‥‥。

都倉 朝から晩までスタジオに入りっぱなし。大学も半分ぐらいしか行けなかったですからね。その頃、あるプロデューサーから「一つ歌詞があるんだけど、曲ないか? 中山千夏という子なんだけど」と。

テリー 中山さん、子役時代から有名でしたよね。そのデビュー曲を任されるなんてビックリしたんじゃないですか。

都倉 そうなんだよね、でも僕は全然知らなくて。「フォークっぽい曲にしてほしい」って言われて作ったのが、あの曲なんです。よく覚えているのが、レコーディングの前日に、アポロ11号が月に着陸したんですよ。

テリー あ! あのタイミングだったんですか。

都倉 月に着陸したのが、確か朝の3〜4時ぐらいでね。みんな生放送を見ていたらしく、朝スタジオに行ったら全員眠そうで(笑)。千夏と一緒に「すごかったね」って言いながら、レコーディングしましたよ。

テリー 21歳の学生がいきなりドーンと大ヒット曲を作っちゃうと、周りの見方も変わってくるんじゃないですか。

都倉 いやァ、全然。だって、その時は毎日をスタジオで暮らしているような、単なる学生作曲家ですから。その3年後ぐらいに「スター誕生!」の審査員を務め始めて、よくテレビに出るようになったあたりから、なんとなく周りの反応が変わってきたように思いましたけれどね。

エンタメ