前駐豪大使・山上信吾が日本外交の舞台裏を抉る!~すぐに涙する外交官のズレ~

 緑豊かな多摩丘陵に抱擁されるように育った。1960年代後半のある日。都心からの転入組であった私は、開発の波が押し寄せながらも田畑や小川に囲まれていた平和で静謐な多摩市立第三小学校を震撼させる事件を起こしてしまった。

 小学三年生の私は.六年生の姉と同学年の悪ガキから受けた心無い嘲りといじめに反発し、なんと乾坤一擲、渾身の蹴りをリーダー格の六年生男子に見舞ったのだ。だが、悪友どもを募って取り囲みに来た上級生から逃れた私は、男子トイレに避難、中から施錠して籠城に入った。子供心に無限に近い長時間が経過した後、保健の水野先生という優しい女教師の説得に応じ、ようやくトイレから出ることにしたのだった。

 だが、本当のレッスンはそれからだった。涙ながらにドアを開けて「投降」した私に対し、水野先生は保健室で優しく介抱してくれながらも、毅然とかつ明確に諭した。

「信ちゃん、どんな時にも泣いては駄目」

 そんな鮮烈な原体験を有するだけに、駐豪大使在任中に、3回にもわたって眼前で大の大人に泣かれた経験は驚きだった。

 週末に同僚と飲み明かしていたにもかかわらず、月曜日に欠勤した女性外交官を注意した際。自衛隊記念日に旭日旗を掲揚することに本腰を入れて取り組んでいるようには見受けられなかった男性外交官に、積極的な対応を促した際。大使公邸のワインセラーに保管されていたウイスキーを私的に流用した嫌疑がかけられていた現地職員に注意喚起した際。

 いずれも会話の最中に面前でオイオイと泣かれた。40代や50代の成人がオフィスの中で涙を流すこと自体が自分にとっては想定外であっただけに、新鮮な驚きとともに鮮明に覚えている。これが時代の変遷なのか、とも感じだ。

 同時に、外交の職にある責任ある人間が流すべき涙とは、そんなものであってはならないと思っている。

 北朝鮮による拉致の実態を知り、拉致被害者・家族の塗炭の心労に思いをいたした時、中国官憲による拘留措置の被害者となり、人道上耐え難い取り調べと身体の拘束に長期間応じざるを得ない在留邦人の苦痛と絶望を思った時こそ、心の中で河のように涙して欲しいと思う。

 多くの外務省員に全くと言って足りないのが、こうした他者への思いやり、EQなのだと確信して止まない。

 青い拉致バッジを背広のラペルに付けて連帯を示すだけでは到底不十分だ。拘留中の在留邦人を心身共に支援すべく、大使以下の在中国の外交官・領事官が領事面会に駆け付けるべきは言を俟たない。

 戦後、幾星霜。歯の浮くような平和主義、国際協調主義のお経に代わって、ようやく「国益を守る」と胸を張って言えるようになったのは前進だ。だが、その「国益」とは何か?

 日の丸を背負って、日本人の生命、身体、財産を守る。それこそが日本外交の一丁目一番地の最重要課題である。外務大臣以下の外務省員全員が今一度、胸に刻みこむべきではないだろうか。

●プロフィール
やまがみ・しんご 前駐オーストラリア特命全権大使。1961年東京都生まれ。東京大学法学部卒業後、84年外務省入省。コロンビア大学大学院留学を経て、00年ジュネーブ国際機関日本政府代表部参事官、07年茨城県警本部警務部長を経て、09年在英国日本国大使館政務担当公使、日本国際問題研究所所長代行、17年国際情報統括官、経済局長などを歴任。20年オーストラリア日本国特命全権大使に就任。23年末に退官。TMI総合法律事務所特別顧問や笹川平和財団上席フェロー、外交評論活動で活躍中。著書に「南半球便り」「中国『戦狼外交』と闘う」「日本外交の劣化:再生への道」(いずれも文藝春秋社)がある。

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