安倍晋三元総理が「悲劇の銃弾」に倒れた衝撃余波が止まらない。筆者は裏で政界を操る「闇将軍」に対し、今後も表舞台で権勢を振るうはずだった故人を「昼将軍」と命名するはずだった。緊急連載の第1回では、政治活動、人生が奇妙にリンクする祖父との因縁を綴る。〈作家・大下英治〉
安倍晋三の母親、つまり岸信介元総理の娘・洋子は、「晋三は政策は祖父の岸信介、性格は父親の晋太郎に似ている」と言っている。
今回の暗殺事件で、山上徹也容疑者は、母親が入信している「反共教団」世界平和統一家庭連合(元・統一教会)に恨みがあり、教団の関連団体に安倍元総理がメッセージを寄せていたことを標的にした理由としてあげている。
さらに岸信介も、統一教会の創設者の文鮮明との関わりが報じられている。
実は、岸元総理もかつて暗殺の標的にされ、刺されるという事件があったのだ。
昭和三十五年一月、岸信介総理は、アメリカ政府と、新安保条約、新行政協定(地位協定)、さらに事前協議に関する交換公文などをワシントンで調印した。
岸は、不平等な安保条約を改正することが、日本の国益にかなうと信じていたのであった。だが、社会党をはじめとする野党勢力は、安保改定作業は、日本の対米従属を恒久化するものとして、院内外で激しい反対闘争を巻き起こした。
洋子がかつて筆者に語ったところによると、心の休まる間がなく、緊張の連続だったという。洋子は、三日にあげず南平台の岸邸に出かけた。
家の周囲は、連日デモ隊に取り巻かれ、そのまま数日泊まりこむこともしばしばだった。デモ隊は大声でシュプレヒコールを繰り返すだけでなく、石や板切れ、ゴミまでも門の中に投げ込んだ。新聞紙に石ころを包み、それをねじって火をつけて放りこんでくることもあった。
安倍元総理が筆者に語ったところによると、まだ小学校にも上がらない幼い安倍は、テレビで見た安保反対闘争のデモも、お祭りと同じなのか、シュプレヒコールを真似して叫んだという。
「アンポ、ハンターイ! アンポ、ハンターイ!」
洋子はそんな息子を叱った。
「晋三、『アンポ、サンセーイ』といいなさい」
岸は、ただ愉快そうにその光景を笑って見ていた。
あるとき、晋三は、岸に訊いた。
「アンポって、何?」
祖父は、ニコニコしながら優しく教えてくれた。
「日本がアメリカに守ってもらうための条約なんだよ。なんでみんな反対するのか、わからないね」
しかし、「孫たちの安全は保証しない」と書かれた脅迫状まがいのものまで届くようになった。そのため、晋三と兄の寛信が学校へ通うときは、送り迎えの人間が必ずついた。
寛信と晋三が、ともに岸邸にいたとき、デモ隊がやってきた。寛信は、鼻息も荒く言った。
「悪いやつが、いっぱい来たぞ。おい、晋三、向かいの家へ行くぞ! 武器を忘れるなよ!」
「うん!」
寛信と晋三は、プラスチックの水鉄砲を握り締め、岸家の裏門から出た。デモ隊をかきわけて、道路をはさんだ向かいの家の裏門から入った。
寛信は、向かいの家の一階の風呂場の窓から外を見た。道路に、デモ隊が大勢いるのがよく見渡せた。みんな、寛信たちのほうに背を向け、岸家のほうを睨みつけている。
「ようし。やつらを、やっつけてやる!」
寛信と晋三は、狙いを定め、水鉄砲を発射した。水が勢いよく飛び出て、デモ隊の背中や首筋に当たった。
「やった! 当たったぞ!」
「もっと、撃ってやれ」
寛信と晋三は、幼いなりに本気になって、祖父を守るため、デモ隊と戦おうとしたのだった。
家族のみんなは、寛信と晋三に言い聞かせていた。
「デモ隊は、良くない人たちの集まりです。あなたたちのお爺さんは、いつも日本のことを考えていらっしゃるのですよ」
二人は、祖父が日本のために働いていることを心から信じた。寛信は、「共産主義者」は、「泥棒」と同義語の「悪党」であるとさえ思ったという。
〈文中敬称略/連載(2)につづく〉