長嶋茂雄×野村克也「実録ライバル史」(11)名誉ある「背番号3」を譲られた
兵庫県明石駅ホームに夜行列車「急行さつま」が滑り込んだ。1958年2月16日午前9時45分だった。 三等車の指定席から1メートル79センチ、78キロの大柄な青年が降り立った。学生服姿だ。4日後の...
兵庫県明石駅ホームに夜行列車「急行さつま」が滑り込んだ。1958年2月16日午前9時45分だった。 三等車の指定席から1メートル79センチ、78キロの大柄な青年が降り立った。学生服姿だ。4日後の...
野村克也にとっても、57年は大きな飛躍の年になった。プロ入り4年目、22歳にして30本塁打を放って、初のタイトルである本塁打王を獲得した。前年は7本塁打だった。 野村は「ずっと試合に出してもらえ...
1957年11月3日、文化の日だった。午後1時35分、明治神宮野球場で東京六大学野球・立教大学対慶応大学2回戦のプレーボールがかかった。 0対0で迎えた5回裏、立大4年・長嶋茂雄が先頭打者として...
53年11月23日、18歳の野村克也は大阪球場で南海(現ソフトバンク)の入団テストを受けていた。もちろん合格したのだが、1本の本塁打が決め手となった。 35年6月29日、野村は京都府竹野郡網野町...
長嶋茂雄は多くの「伝説」を残しているが、1953年8月1日、埼玉・県営大宮球場で放ったバックスクリーン弾を抜きにしては語れない。生涯を決めた一発だった。 36年2月20日、日本にプロ野球が誕生し...
翌6月9日、皇太子さまと雅子さまの「結婚の儀」とパレードに日本中が祝福し、沸き返っていた。 この日、乱闘の余韻が残る巨人とヤクルトは金沢に移動した。今度は平成の野球史に残る逆転の名勝負となった。...
皇太子徳仁親王と小和田雅子さま(現天皇・皇后)の「結婚の儀」を翌日に控えた1993年6月8日、巨人とヤクルトの遺恨が遺恨を呼んだ「北陸戦争」が起こった。 長嶋茂雄監督が率いる巨人は、野村克也監督...
長嶋は92年オフ、12年ぶりに巨人の監督に就任した。野村はライバル心・対抗心・敵愾心を隠すことなく、ID野球で対抗姿勢を打ち出した。〝口撃〟を繰り返した。 野村は「王、長嶋がヒマワリなら、私は月...
東京ドームには試合前から熱気が漂っていた。1993年4月30日。プロ野球の平成因縁対決、ファンが注目する長嶋茂雄監督が13年ぶりに指揮を執る巨人と「ID(インポートデータ)野球」を掲げる野村克也のヤ...
野村の600号記念日の夜、神宮球場のヤクルト対巨人戦には4万9000人のファンが詰めかけていた。大観衆から巨人・長嶋茂雄新監督が試合後にヤジ・怒号を浴びていた。激励の歓声はかき消されていた。 1...