「池田大作と自民党」知られざる蜜月50年(1)「信濃町の2人の池田だ」

 公明党と自民党との連立政権が成立したのは99年のこと。現在の協力関係はそこから始まったかに思えるが、実際には先ごろ亡くなった創価学会・池田大作名誉会長が公明党を結党する以前に築かれていた。巨大宗教団体のカリスマはいかにして政界に影響を与え続けたのか。知られざる60年の蜜月に迫る。

 去る11月15日、創価学会・池田大作名誉会長が、老衰のため逝去し、3日後の18日に第一報が伝えられると、永田町界隈には大きな衝撃が走った。言うまでもなく、創価学会が連立与党である公明党の最大の支持母体であるからだ。

 岸田文雄総理は報道があった同日にすぐさま、自身の公式サイトやⅩ(旧Twitter)で、総理大臣名義で異例の追悼コメントを発表。翌19日には弔問にも訪れている。いかに自民党にとって公明党との連携が重要なものかを如実に示す行動と言えるだろう。

 両党の関係の源流は、64年の公明党結党以前にさかのぼるとも言われる。季刊誌「宗教問題」編集長の小川寛大氏が、公明党の成り立ちを解説する。

「党ができる前から、創価学会は政界進出を強く意識していました。結党前の選挙でも『創価学会系無所属』として立候補者を擁立、国政選挙で当選者も出しています。そして58年に戸田城聖第2代会長が死去したことを受け、60年に池田氏が33歳の若さで第3代会長に就任しました」

 その前後の選挙では、現在の公明党とはかけ離れた政治的主張を掲げていたという。小川氏が続ける。

「当時の立候補者は『王仏冥合、国立戒壇建立』という政策を打ち出していました。有り体に言えば、創価学会による宗教国家をつくる、ということです。当然、拒否反応は大きかった」

 結党後初の67年衆院選で25議席を獲得して以降は、創価学会や公明党への批判本も大量に出版された。そんな中の69年に起きたのが、批判本に対する「言論出版妨害事件」だった。

「当時から多数の出版物を出していた創価学会は、版元や取次業者に顔が利きました。そのコネで批判本の出版を取りやめるよう裏で圧力をかけていた、と言われますが、特にテレビなどにも多数出演しタレント教授として影響力が強かった藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』への妨害が明るみに出て、大きな社会問題となりました。公明党から著者との橋渡しを依頼された協力者として、当時自民党幹事長を務めていた後の総理、田中角栄の名が挙がったからです」(小川氏)

 池田氏は生前、角栄をはじめ、池田勇人、福田赳夫ら歴代総理大臣経験者との友誼を公言していた。特に池田勇人に関しては、

「一説では池田勇人が創価学会本部のある東京・信濃町に居を構え、よく池田大作氏のもとに通っており、大作氏は『信濃町の2人の池田だ』と周囲に話していたとか」(小川氏)

 池田勇人は岸田総理が領袖を務める党内派閥・宏池会創始者としても知られる。公明党結党直後の64年10月に退陣し、その後は療養生活に入ったため、池田大作氏との交流は結党以前のことになろう。

 つまり、自民党と「池田・創価学会」の蜜月は現在まで60年以上も続いてきたことになるのだ。

(つづく)

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