「池田大作と自民党」知られざる蜜月50年(2)公明党議員が中国で極秘折衝

「2人の池田」が池田勇人の死去後しばらく経ってからの発言であり、両者の年齢も30歳近く離れていたことで、「あれは噓だ」「元総理との仲をアピールしたくて風呂敷を広げている」と断じる永田町関係者は少なくはない。ただ、池田氏がそうした海千山千の大物政治家の懐に入り込む「人間力」の持ち主であったのは確かなようだ。

「田中角栄名言集 仕事と人生の極意」(幻冬舎)などを上梓し、田中角栄研究の第一人者として知られる政治評論家・小林吉弥氏が証言する。

「角栄が、『黒い霧事件』の余波で幹事長を辞したのは66年。池田氏が接触した時期には、再び同職に戻っていました。池田氏や公明党はその政治家としての勢いに頼りたかったのでしょう。池田氏と会食した角栄は帰途の車内、秘書に問わず語りでこう言ったそうです。『あれは食えない男だが、なかなかどうして、しなやかな鋼のようだ』と」

「今太閤」と呼ばれた稀代の政治家も池田氏の器量を認め、公明党との連携を深めていく。前述した「出版妨害」が明るみに出ても、両者に亀裂が入ることはなかった。

「『公明党から頼まれてやったわけじゃない、俺が1人で汗をかいただけだ』と語り、池田氏はそれを恩義に感じて、角栄を『いずれ総理になったら面白い』と讃えていたそうです」(小林氏)

 その言葉通り、72年に角栄は総理大臣に就任すると、すぐさま日中国交正常化を成し遂げる。昵懇だった公明党の中央執行委員長・竹入義勝衆院議員に極秘折衝を任せるほど関係は良好だった。

 角栄は俗に言う「金脈スキャンダル」で退陣後、76年に「ロッキード事件」により逮捕。その影響もあって同年の衆院選で自民党は大敗し、結党以来、初めて単独過半数を割り込んだ。

「これも、自民党と公明党が近しくなる一因でした。政権維持には野党との協力態勢が不可欠、と判断するきっかけになったのです」(小林氏)

 自民党と公明党の「強いパイプ」の原点はこうして構築されたのだ。ただ一方で、池田氏自身は70年代以降、徐々に政治の表舞台から姿を消すようになる。季刊誌「宗教問題」編集長の小川寛大氏が言う。

「70年に池田氏が出版妨害事件の謝罪会見を開きます。そこで創価学会幹部の議員兼職をなくし、公明党の自立性を高めるとともに、自身の政界進出も行わないことを確約します。そして宗教的指導者としてよりも、平和主義を訴える文化人としてのスタンスへ移行していくのです」

 これにより、公明党も、池田氏の掲げる平和主義、改憲路線へ政策をシフトしていくことになる。

(つづく)

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