広告音楽プロデューサー、ポール岡田が語る恩人・伊集院静氏との出会い

  伝説のボーカリストにして広告音楽プロデューサーとして活躍したポール岡田(76)が今年6月に47年ぶりの新譜となる『Back Pages-僕の裏側-』など3曲が収録されたミニアルバムをリリースした。そんな岡田の音楽人生を振り返ってみよう。

 人気GSバンド「ザ・カーナビーツ」の2代目ボーカルとしてメジャーシーンに登場した岡田はグループ解散後、ソロ活動をスタートさせる。1969年12月から翌70年2月末まで東京・渋谷東横劇場で上演された日本初のロック・ミュージカル「ヘアー」に「ザ・タイガース」の元メンバーの加橋かつみや、後にフォークロックグループ「ガロ」を結成する大野真澄や堀内麻九らとともにメインキャストの一人として出演した。

 その後、ソロアーティストとして東宝レコードから『聖少女』でデビュー。そして、東芝EMIから、寺門由紀子との男女デュエット・グループ「パイシス」としても、作詞・作曲を松任谷由実(※当時は荒井由実)が手掛けた『恋人と来ないで/陽だまり』などをリリースする。

 その一方で、作曲家・小林亜星からのオファーを受けてハウス食品の「ミルク・シャービック」やライオン油脂の「エメロン・シャンプー」などのCMソングの歌唱も担当するなどマルチな活躍を見せる。 後に広告企画&音楽制作プロデューサーとして数々のCMソングをヒットさせる岡田が、若い頃に歌い手を担当していたというのは興味深いエピソードだが、当人は懐かしそうにこう回顧する。

「収録では亜星さんがピアノで曲のメロディーを弾いてくださって、その場で覚えて即レコーディングという感じでしたね。譜面が読めない僕をよくあれだけ指名してくれたな、と。それまで(大学在学中の身では)普通ではないラインを歩んで来たので、人との接し方とか、付き合い方とか、色んなことを勉強させてもらいました」

 そんな岡田が、プロデューサーとしてCM業界に携わるキッカケとなったのが当時広告制作会社に勤務していた作家・伊集院静氏との出会いだ。

「伊集院さんとの最初の出会いは、僕が神戸の大学を卒業した後で、いわばモラトリアム期間。知人に頼まれて六本木のクラブでギター弾き語りをしていた時でしたね。『ザ・カーナビーツ』のベーシストだった岡忠夫さん(故人)がGSを辞めた後に入った広告制作プロダクションで、一時的に彼の同僚だった伊集院さんが、何故か、岡さんの話しを聴いて、僕に何かを感じてもらえたようで、『音楽に強くて広告企画にも向いてそうだ』と、六本木のクラブで1人でギターを弾きながら歌っているところに、伊集院さんが来てくれたんです。『君はCMというものに興味を持ったことはある?』と…」

 突然の来訪に戸惑いを覚えた岡田は「とくに興味はないです。父はジャーナリストでしたが」と一度は断ったものの、「とにかく一度、僕の会社に顔を出してくれないか」という伊集院氏からの静かなラブコールを受けて、数日後、その会社に足を運ぶことになる。

「基本的に昼間はヒマでしたし、場所も赤坂だったので『そこまで言われたのなら……』と会社に行ってみたんです」

 この行動が、結果的には音楽プロデューサーとしての道の一歩となった。いわば伊集院氏は、結果的に、岡田の人生の重要な時間のナビゲートをし、新しい才能を見出してくれた恩人と言える。岡田はその流れで広告制作会社に採用され、数々の広告制作やCM名曲制作に携わることとなる。

ポール岡田 
1947年8月13日生まれ、滋賀県出身。1969年、「ザ・カーナビーツ」に2代目ボーカリストとしてメジャーデビュー。同年から東京・渋谷東横劇場で上演された日本初のロック・ミュージカル「ヘアー」にウーフ役で出演。その後再びボーカリストとしてソロ歌手、男女デュオなどでレコードをリリース。70年代末に音楽活動を休止し、広告制作会社に入社。その後、広告企画&音楽制作プロデューサーとして数多くのCMソングを手掛ける。同社を退社後、01年に個人会社を設立。09年末にセミ・ドキュメンタリー小説「HAIR1969輝きの瞬間」を上梓。翌10年からバンド・ライブ活動を再開。

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