伝説のボーカリスト、ポール岡田が明かす“盟友”長戸大幸氏との絆

 伝説のボーカリストにして広告企画プロデューサーとして活躍したポール岡田(76)が今年6月に47年ぶりの新譜となる『Back Pages-僕の裏側-』など3曲が収録されたミニアルバムをリリースした。60年代末のGSブームの最中に「ザ・カーナビーツ」の2代目ボーカルとして活躍。広告業界では、「サーカス」の『Mr.サマータイム』や「Y.M.O.」の『君に、胸キュン。』など数多くのCMソングを世に放った岡田だが、その60年以上にわたる音楽人生を振り返るうえで欠かすことができないのが“盟友”とも言える存在だ。

 滋賀県の大津市で産声を上げた岡田は中学、高校と地元では有数の進学校に進学する中、音楽と出会う。そして高校、大学とアマチュアバンドで活動する中、大阪や京都のジャズ喫茶などで頭角を現し、大学2年の時に音楽プロダクションのスカウトを受け、大学を休学して上京した。

 紆余曲折を経て「ザ・カーナビーツ」の2代目ボーカルとして活躍することとなるが、高校生の時に結成したアマチュアバンド「The Sounds Of Weeds」(※後に「The WEEDS」に改名)の誕生のキッカケとなったのが、あの長戸大幸氏だった。

 長戸氏といえば、音楽制作会社「ビーイング」(※現在は株式会社B ZONE)を設立。人気ロックユニット「B’z」や人気バンド「WANDS」、「DEEN」、「T-BOLAN」、音楽ユニットのZARD、シンガーソングライターの大黒摩季をブレークさせ、音楽プロデューサーとして一時代を築くことになるが、岡田氏はその出会いをこう回顧する。

「長戸君は中学、高校の1つ後輩で以前から顔は知っていたし、何となく話したこともあった。それで高校3年生の時、エレキギターを使った軽音バンド同好会を作らないかと声を掛けられて。僕は当時サッカー部に所属していたんだけど、彼がバンドをやりたくなって『ボーカリストは誰にしようか?』となって声を掛けたみたい。後から聞いたら、『見た目の雰囲気がロックだと思った』って。さすが後に名プロデューサーになるだけあるよね(笑)」

 何とも運命的なめぐり逢いだが、高校生の長戸氏からはすでに音楽に対する並々ならぬ情熱が感じられたという。

「当時は長戸君の部屋にもよく行ったけどとにかく洋楽のドーナツ盤を山ほど持っていて、お小遣いは全部レコードに注ぎ込んでいた感じ。もっとも、僕らが通っていた高校は進学校だったし、まだ“エレキが教育の敵”という時代。長戸君のアイデアで『軽音バンド同好会』ではなく、『クラシックギター同好会』として申請したらまんまと学校側に話が通って認められたけど、実際はクラシックギターなんて誰も弾かないし、結局1カ月くらいでバレて廃部に。まあ、そういった学生時代の経験が結果的に僕や長戸君に火をつけた部分はあるかもしれない」

 その後も岡田がプロデュースした化粧品のCM楽曲として書き下ろされ、91年にリリースされた「B‘z」のシングル曲『LADY NAVIGATION』がミリオンセラーを記録したり、01年に岡田が個人会社を設立する際に長戸氏がサポートしたりと、2人の関係は続いていく。

「僕が音楽とともに人生を過ごせているのは間違いなく彼がキッカケだからね」

 盟友との絆は今なお健在という。

ポール岡田 
1947年8月13日生まれ、滋賀県出身。69年、「ザ・カーナビーツ」に2代目ボーカリストとしてメジャーデビュー。同年から東京・渋谷東横劇場で上演された日本初のロック・ミュージカル「ヘアー」にウーフ役で出演。その後再びボーカリストとしてソロ歌手、男女デュオなどでレコードをリリース。70年代末に音楽活動を休止し、広告制作会社に入社。
その後、広告音楽プロデューサーとしてとして数多くのCMソングを手掛ける。同社を退社後、01年に個人会社を設立。09年末にセミ・ドキュメンタリー小説「HAIR1969輝きの瞬間」を上梓。翌10年からバンド・ライブ活動を再開。

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