中森明菜(57)や小泉今日子(56)を輩出した「花の82年組」と比較され、「不作」とも揶揄された83年組。デビュー40周年を迎えた桑田靖子(55)がアイドル時代を振り返る。
─デビュー曲「脱・プラトニック」では、大人びた歌唱力が話題に。
桑田 地元が福岡で、小学生の頃から地域の「のど自慢大会」に出ていたら、平尾昌晃ミュージックスクールでご指導いただけるようになって‥‥。周囲の女の子がかわいらしい曲を歌う中、私だけ梓みちよさんの「よろしかったら」でレッスンしていました(笑)。
─ラジオ局のオーディションなどを経て芸能界入り。サンミュージックには同じく福岡出身の松田聖子(60)がいました。
桑田 聖子さんはすでに超売れっ子で、全国からお呼びがかかるわけです。そこに新人の私もバーターでお供させていただいて(笑)。聖子さんはヘアメイクもご自身でやっていらっしゃいました。一方、私はまだ15歳でお化粧の経験なんてないでしょう? 見かねた聖子さんに「ちょっとおいで」とお声をかけていただいて。アイラインの引き方やマスカラについても「睫毛を上げてから塗るんだよ」と、ていねいに教えていただきました。明菜さんにもよくしていただいて、親衛隊の方に聞いたら「靖子ちゃんをよろしくね」っていろんなところで仰ってくれてたみたいで。楽屋で実際にお会いした時には「あなたが靖子ちゃんね」と話しかけてくれました。
─当時、サンミュージックの有望株は相澤秀禎社長(当時)の自宅に住むならわしでしたね。
桑田 デビュー前の13歳からお世話になりました。社長の奥様は厳しかったけど、優しくて頼もしくて、みんなから「ママ、ママ」って慕われていましたね。
─居候生活では堀越高校で同学年の故・岡田有希子も一緒だったそうで。
桑田 デビューは有希子ちゃんのほうが1年遅かったんですけど、すぐに人気が出て私が追いかける立場になって‥‥。彼女は高校の成績もよかったですよ。私はお尻から2番目(笑)。よく言われましたよ。「なんでなかなか学校に行けない有希子より成績が下なんだ」って。テスト前、夜中に2人で電気ストーブにあたりながら勉強したのは素敵な思い出ですね。私は試験範囲を伝えるだけで、教わってばかりでしたけど(笑)。
─20歳で事務所を退社して以降はどんな生活を?
桑田 10代の青春を取り戻そうという気持ちで、アメリカでアルバイトをしながらボイトレしたり、バリでサーフィンしたり、音楽仲間とお酒を飲んだり。好きなことばっかりしていました。
─40代で音楽業界に復帰。大沢逸美(56)の呼びかけがきっかけで、18年には松本明子(56)、森尾由美(56)らと83年組のユニット「お神セブン」として35周年のステージに。
桑田 実は、同世代でいちばん歌が上手だな〜って思っていたのが小林千絵ちゃん(59)。昨年の木元ゆうこちゃん(56)とのクリスマスライブでも一緒だったんですけど、なかなか言う機会がなくて。今年は40周年。アメリカに住んでる徳丸純子ちゃん(56)の都合が合えば、また7人で集まりたいですね。
─「不作の83年組」の意地ですね。
桑田 松本明子ちゃんが言ってたのは、「不作だったから、今の私たちはやりたいことができる」。確かにそうだなぁって。アイドルとして飛び抜けて売れた子はいなかったけど、40年経ってもこうして芸能界にいられるのは感謝しかありません。夢はNHK紅白歌合戦。福岡にいる母に親孝行したいですね。
*週刊アサヒ芸能1月19日号掲載