世界の福本豊 プロ野球“足攻爆談!”「吉田正尚に引き継がれた背番号『7』」

 オリックス・吉田正尚の背番号が来季、34から7に変わることになった。僕が長くつけさせてもらった番号。糸井がFAで阪神に移籍した17年以降は空き番になっていたが、チームの顔と言える正尚なら文句なしの適任やと思う。僕は阪急の7やから「オリックスの7は吉田正尚」と言われるぐらいに定着させてほしい。野球選手にとって、背番号は名刺みたいなもんやから。

 最近は、野球少年たちが背番号を覚えているような選手が少ない。昭和のプロ野球は、応援しているチーム以外でも、誰もが知っている番号がたくさんあった。長嶋さんの3、王さんの1に代表されるように、野村さんの19、金田さんの34、稲尾さんの24など、名前と番号を一緒に覚えていた。掛布の31や松井の55、イチローの51など、入団当初の重たい番号を変えずに代名詞とした選手もいるし、背番号が世間に浸透してこそ超一流と言える。

 僕は入団した時の番号は40やった。1968年のドラフト7位。おまけみたいな入団で、番号にこだわりもなく、ありがたくいただいた。でも、2年連続盗塁王を獲った3年目のシーズン後に「7番をください」と球団に頼んだ。40番は、人から「始終(しじゅう)苦労する」と言われたこともあったから。それにレギュラーといえば一ケタ番号のイメージがあった。中でも7番は、誕生日が11月7日で、ラッキー7の最高の番号と思っていた。

 その時に7番を付けていたのが1学年下の平林二郞。中京商で甲子園春夏連覇に貢献し、66年の第2次(国体出場の高校、大学、社会人選手対象)ドラフト1位で入団した俊足の内野手やった。入団1年目で7番をもらったぐらいやから、球団も期待していたと思う。でも、足は速かったけど打力が弱くて1軍に定着できていなかったから、僕の40と入れ替わることになった。平林も意地があったと思う。その後、代走や守備固めで重宝され、81年に引退するまで10年間、40を背負ったのやから大したもの。

 僕は松下電器時代の番号が12やった。当時の監督が南海ファンで、背番号12の広瀬さん(61年から5年連続盗塁王)のような選手になれと与えられた番号やった。そして、僕にとってはプロ入団4年目で背負った待望の一ケタ7番は、背中を見られていると気が引き締まり、大きな発奮材料となった。「背中が軽くなったから」と冗談を言いながら、走りに走りまくってシーズン106盗塁の当時の世界記録(現在もプロ野球記録)を作り、MVPを獲得することができた。当時のパ・リーグは、テレビ中継もなかったし、オールスターや日本シリーズでは背番号7の福本豊をアピールしようと必死で頑張った。88年に引退してからも、打撃コーチ、2軍監督としても7番で、20年も背負うことができた。

 誇りのある番号だけに、その後の扱いは残念に感じることもあった。できればチームを背負う生え抜きの主力につけてほしかった。正尚はオリックスだけでなく、日本球界を代表する打者。そのわりにまだ34番が一般のファンには定着していなかったから、ちょうどいいタイミングやったと思う。3年連続の首位打者獲得となれば、パ・リーグでは張本さん、落合、イチローに続く快挙だという。ケガさえなければ、7番でさらに輝くのは間違いない。

福本豊(ふくもと・ゆたか):1968年に阪急に入団し、通算2543安打、1065盗塁。引退後はオリックスと阪神で打撃コーチ、2軍監督などを歴任。2002年、野球殿堂入り。現在はサンテレビ、ABCラジオ、スポーツ報知で解説。

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