コロナ社会を乗り切る!徳川家斉の超強運「ノーテンキ人生訓」

 2020年の夏、来るはずだった五輪は来ず、代わりに新型コロナがやって来た。大河ドラマ「麒麟がくる」はコロナ禍で放送を中断している。平和で天下泰平の世に麒麟は現れるというが、はたして家斉の世に麒麟は来たのか!? 令和の世に麒麟は来るのか!? 11代将軍・徳川家斉に注目してみる。

 江戸時代に、精力旺盛で「オットセイ将軍」「種馬公方」の異名を持つ将軍がいた。11代徳川家斉(いえなり)である。家斉とはいったい何者だったのか。

 この5月に文春新書「遊王 徳川家斉」を上梓した、歴史エッセイストの岡崎守恭氏は、コロナ禍でつまずいた現代の安倍政治と家斉の時代との奇妙な符合を指摘する。

「名君なのか、暗君なのかと問われると、名君とはなかなか言えません。が、実際の家斉はそんな範疇に収まらない、権威と安定の上に君臨した『最強の将軍』でした」

 家斉は、徳川家康が開いた徳川幕府の第11代将軍である。家康から幕末に大政奉還をした最後の15代慶喜までの中では、「生まれながらの将軍」3代家光、そして「暴れん坊将軍」として時代劇で描かれる中興の祖と言われた8代吉宗などと比べると、もっぱら大奥通いで子供を50人以上も作った男として知られるくらいだ。

 しかし、歴代将軍で最長となる50年もの長期政権を維持したことは、案外知られていない。安倍晋三総理は、2019年11月で桂太郎を抜き、単独で憲政史上最長の在任期間を更新中。だが家斉の長期政権は、天保年間に息子の家慶に将軍職を譲ったあとも大御所(前将軍)として政権を握っていたため、「山川日本史」などの歴史教科書では「大御所時代」と書かれるほど、安定した政権だった。

 家斉は、8代吉宗の曾孫にあたり、吉宗から続く徳川御三卿の一つである一橋家に生まれ、さまざまな偶然と超強運な巡り合わせで、わずか15歳で将軍職に就いている。現代なら中学生の将軍というわけで、政権初期には、吉宗の孫にあたる白河藩主の松平定信が補佐して改革を行った。

 その「寛政の改革」は、緊縮財政のうえに、幕府に批判的な学者や戯作者には厳しく言論統制を行い、風紀を乱すことを禁止したので、江戸の庶民には不満のたまる時代だった。遊女を妻にして遊里に精通した有名な戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)などは、江戸の文化を浮世絵や洒落本にしたが、禁令を犯したとして、手鎖50日の刑を受けている。

 やがて家斉が成人して定信を解任すると、家斉みずから浜離宮などで宴を繰り返すなど、贅沢な暮らしを謳歌。江戸庶民の間でも、緊縮の空気は緩んでいく。

「家斉は小判の中に含まれる金の量を少なくした新しい小判を流通させ、その差額を幕府が懐にするという手を使って、大盤ぶるまいができる将軍になったのです」(岡崎氏)

「大盤ぶるまい」は、家斉の大奥通いでできた50人以上の子供たちを、いわば持参金付きで各大名に嫁がせたり養子に出すことに始まり、大規模な寺社を建てたり、みずから贅沢をすることだった。

「江戸時代は年貢などの形で吸い上げた財を、武家がため込んだままで使わなければ、つまり市井に還流させなければ、町民も農民も干上がってしまいます。家斉は自分が贅沢することで、お裾分けしたのです」(岡崎氏)

 これは、シャンパンタワーの上からシャンパンを注いでいくとしだいに下のグラスにも滴り落ちていくという、アベノミクスのトリクルダウン理論に似ていなくもない。

「ただ、みずから信念を持ってこうした政策を実行したのではなく、いわば『おまかせ政治』でした。歴代の将軍には、柳沢吉保や田沼意次など、どちらが将軍かわからないような実力者がいましたが、家斉にはそれほどの大物はいなかったこともあり、適材適所でうまく『丸投げ』と『おまかせ』をしていたと言えますね」(岡崎氏)

 家斉は、数百人の女をはべらせた幕府のハーレム、「大奥」に君臨した性豪将軍と言われる。その精力を支えたのは、オットセイが多くのメスをはべらせてひたすら子作りに励むのにあやかって、オットセイのある部分の乾燥粉末を精力剤として飲んでいたことだ。そこから「オットセイ将軍」の異名が付くのだが、さらに健康オタクの一面も。千葉にあった幕府の牧場から乳牛を江戸城の近くに連れてきて、牛乳から白はく牛酪(ぎゅうらく)と呼んだチーズを作り、これもよく食べていた。殺菌作用があり感染症に効果のあるショウガやミョウガも、好んで食べていたという。

 そのかいあってか、家斉は16歳で側室に長女を産ませてから、55歳の時の泰姫まで、正室・側室を少なくとも57回妊娠させ、4人の流産を除いて男子26人、女子27人、合計53人もの子供をもうけた。少子高齢化の進む現代日本から見れば、端倪(たんげい)すべからざる性豪アニマル=種馬‥‥いや見上げたものである。

「早熟の好き者であったのは事実です。16歳の時、薩摩藩の姫君(茂姫)を奥方に迎えたのですが、その前に家斉は女中の『お万』に手をつけて、茂姫との婚儀の1カ月後には子供が生まれています。『薩摩芋のふくる間を 待ちかねて おまんを喰うて 腹はぼてれん』という、秀逸な落首でからかわれています」(岡崎氏)

 しかし、家斉が子作りに励んだのは、単純にスキモノだっただけではなかった。岡崎氏が続けて言うには、

「ひいおじいさんの8代吉宗が紀州家から将軍になれたのは、2代秀忠からの、本家の血統がとだえたからです。そして10代家治の後継ぎが死んでしまって、分家の一橋家から家斉が入ることができました。つまり家斉は一橋系の将軍家の始まりなのです。まず長生きすること、そして子孫を多く残すこと、これが自分から始まる将軍家が続いていくためには不可欠の使命だと考えたはずです」

 この思いが大奥通いに拍車をかける。「性への執念」は、すなわち「生への執念」でもあったというわけだ。

 一方で家斉は度量が広く、面倒見のいい仕えやすい上司だったようだ。

「家斉は三国志が好きで、自分で諸葛孔明の像を描いて飾っていました。ある時、『今はなぜこのような家臣がいないのであろうか』とため息をつき、お側の者は真っ青になったけれど、すぐに『それもそうだな。上にも劉備玄徳のような立派な君主もいないからな』とニヤリ。お側の者はホッとしたというエピソードがあります」(岡崎氏)

 そんな鷹揚な家斉だから、贅沢や放蕩の風潮が庶民にまで広がっていくことになる。家斉は植木が好きだったことから、火事の延焼を避けるため、江戸の各地に作った火除地で栽培された植木鉢をたくさん買い上げ、庶民にも植木ブームが広がることに。花見や隅田川の花火なども盛んになり、入谷の鬼子母神で朝顔市が始まり、年の瀬の浅草寺の羽子板市では歌舞伎役者の押絵が人気になった。厄除けで知られる川崎大師には、みずからの厄除けに御利益があったと特別に寺領を寄進したりして支援。以後、将軍家の参詣が恒例となり、門前の茶屋などがにぎわい、観光地として発展していくきっかけを作ったのだった。

 相撲では、白い綱に紙垂(しで)をつけたスタイルで土俵入りする型は、江戸城で行われた家斉の上覧相撲から始まった、と言われる。深川の富岡八幡宮には、歴代横綱と伝説の大関・雷電為右衛門を顕彰した碑が建てられているが、「寛政の改革」で抑えられていた深川祭が文化4(1807)年、12年ぶりに復活した際には、深川に向かう群衆の重みで老朽化していた永代橋が落ち、1400人もの死者・行方不明者を出す惨事も発生。それほど庶民のエネルギーが満ちた時代だった。 寺子屋などが普及して、庶民も文字を読むようになったのも文化文政=家斉の時代で、滝沢馬琴は「椿説弓張月」や「南総里見八犬伝」などでベストセラー作家となり、原稿料で暮らした日本最初の作家と言われている。他に十返舎一九の「東海道中膝栗毛」や、浮世絵の葛飾北斎、安藤広重などが登場したのも、この時代。中でも柳亭種彦の「偐紫(にせむらさき) 田舎源氏」は、舞台を平安から室町時代に移した「源氏物語」の翻案だが、歌川国貞の画が添えられ、そのモデルが時の家斉と大奥だとして、大奥の女中たちも隠れて読んでいたというくらいの人気作だった。

 風紀が乱れてはいくけれど、家斉はそれらを取り締まったりする様子はなく、政治は相変わらず部下におまかせ。そのおかげで、現代にも続く江戸の風習や町人文化、いわばポップカルチャーが花開いたのである。

 徳川家が編纂した歴史書である「徳川実紀」に「遊王となりて、数年を楽しみたまふ。嗚呼福徳王と申たてまつるべきかな」とある。「遊王」とは、まさに泰平の世を準備し、麒麟を招来した家斉とその時代=文化文政の空気そのものだった。

 家斉が語ったとされる言葉を最後に掲げたい。

「天下の政事は予の如く金銭を吝(おし)まず、物事を気に懸けず、醒めれば美酒を飲み、酔えば珍味を食し、後宮三日の花の如き美少女を相手にして娯しまば、士民は政治の寛仁大度なるに感服し、上の好むところ下亦(また)これに倣い、都鄙の人心、親睦和楽して、民富み国栄え、老幼男女泰平を謡うて、余が徳を称賛するが如き、目出度き世柄となるべきにと誇られるとぞ」

 ノーテンキ極まりなし、付ける薬なしの人生訓だが、「アフターコロナの世」は、かくあるべしと言うべきか!?

岡崎守恭(おかざき・もりやす)1951年、東京都生まれ。早稲田大学人文学科卒業。日本経済新聞社で北京支局長、政治部長、編集局長(大阪本社)などを歴任。著書に「自民党秘史」(講談社現代新書)、「墓が語る江戸の真実」(新潮新書)がある

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