高度経済成長期を終え、安定成長期へと向かっていた。各家庭のお茶の間で視聴を楽しむ余裕も生まれた時代は、またテレビドラマの黎明期でもあった。テレビ誌記者歴40年を超える大ベテランが、当時の撮影現場の熱気を伝える。
もちろん60年代にもテレビドラマは放送されていた。面白くはあったが、やはり刑事ものやアクションものなどになると映画のスケール感にはかなわなかった。テレビライター・山川博司氏が語る。
「それが70年代に入ってから、撮影技術や脚本の出来で映画のクオリティーに引けを取らないドラマが増えていった。『太陽にほえろ!』(72〜86年、日テレ系)が始まるや『こんなドラマがあるのか』とびっくりしました。集団の群像劇、1つのドラマの1話1話に視聴者が集中して、みんなで楽しむようになった。毎回、主役が変わって、そのたびごとに破天荒さ、面白みにドーンと衝撃を受けました。だからこそ14年という長きにわたって続いたのでしょう」
一説に同ドラマは、8億円とも言われる映画制作で作った借金を返済すべく、「石原プロ」が起死回生策として臨んだテレビ界進出だったとされている。
「裕次郎さんを中心にして、その借金を『よし、みんなで返すぞ!』という意気込みがすごかった。70年代の刑事ドラマの隆盛を象徴するような現場でした」
活気ある現場には、遊び心も入り交じっていたという。
「裕次郎さんが現場に車で入ってきた時でした。手招きされてね。『みなさん、もう待ってますよ。始まりますよ』と言ったんだけど、『乗れよ。いいから入れよ』って。そしたらグラスにワインを注がれて『お前が飲まなきゃ始まんないよ』なんて言われて。今では考えられないけど、何があっても、石原プロの現場は日テレでもテレ朝でもとにかく酒だった」
石原プロのテレビ朝日系ドラマといえば、ド派手なカーアクションと銃撃戦、爆破シーンで一世を風靡した「西部警察」(79〜82年)だ。莫大な予算が投じられた大作の裏では、
「経済的な面ばかりでなく、テレ朝のバックアップが大きかったと思います。テレ朝の広報とマスコミ連中が麻雀をしても、今思えばわざと負けてくれたのかなという感じで、気持ちよく帰らせてくれた。しかもタクシー券までくれてね」
俳優の中村雅俊は「われら青春!」(74年)、「俺たちの旅」(75〜76年)、「青春ド真中」(78年、いずれも日テレ系)などの主演で人気を博していた。
「俳優というよりアイドルでした。どこへ行ってもワーキャーすごかったけど、気にせず一緒に飲みました。僕らのような記者と飲んでいても、ブツブツああでもない、こうでもないと言うようなこともなかった。1度だけ自分の青春ドラマのシリーズについて『山川さん、何でこんなに人気が出たんだろうね?』って。でも、それ以上は話さなかった。いつも、多くは語らないんです」
最後は70年代ドラマの締めくくりにふさわしい名作「白い巨塔」(78〜79年、フジテレビ系)のエピソードを披露してもらった。
「今でも覚えています。最終回に向けて、田宮二郎さんがテレビ誌の表紙を撮っていたんです。新宿駅の東口で、人がいっぱい集まってきたけど、ものすごい協力的で、どんなポーズでもやってくれた。ただ、今思えば、どことなく上の空だったような‥‥」
田宮が猟銃自殺を遂げた時、まだラスト2話の放映が残されていた。
*週刊アサヒ芸能6月29日号掲載