「淡谷のり子さんのお顔が怖すぎて…」美川憲一が大先輩から受け継いだ「お金術」

 皆様、ごきげんよう。美川憲一です。今週は、お世話になった大御所の方々とのエピソードからお話しさせていただこうかしら。

 ご存知の方も多いかもしれませんが、私がシャンソンを歌うきっかけを作ってくださったのは、故・淡谷のり子さん。初めてお会いしたのは、私の3曲目のシングル「柳ヶ瀬ブルース」(1966年発売。当時の美川さんは20歳)がヒットした頃。淡谷さんというブルースを歌う女王と、当時のキャッチフレーズが「夜の貴公子」で若手のブルース歌手だった私との、確か雑誌での対談でした。

 現場に到着したら、すでに淡谷さんはメイクをすませて衣装も着込んで、お座敷に座っていらっしゃった。

「おはようございます。遅れて大変申し訳ございません」とご挨拶させていただいたのですが、「いいのよ。わたくしも今、到着したところですから」とおっしゃるのですが、その表情がとても怖い。話調はソフトでもお顔つきが怖すぎて、私は人生で初めて後ずさりをする体験をしました(笑)。

 すると、「わたくしの顔が怖いんでしょう?」と唐突に聞かれて、私は遠慮せず「はい!」と答えてしまいました。そうしたら淡谷さんが「あなた、ストレートな人柄でいいわね」と喜んでくださったの。あの頃の淡谷さんは、すでにシャンソン界の権威。周りには反対意見を言う人など皆無な環境で、正直に意見した私を気に入ってくださったみたい。そして、対談後にこう言われました。

「これから私が、あなたをかわいがってあげる。今度お食事でもしましょう」

「ぜひ」とお答えしたものの、ご一緒しても緊張でお食事が喉を通らないことは明白。数年間はお断りしていたかもしれません。

 その後、仕事場でお会いした時のこと。「連絡もないし、お食事にも行かないわね。なぜなの?」と聞かれて。「大先輩ですから緊張しますので」と伝えたら、「そんなこと気にしないでいいのよ」とおっしゃっていただいたんです。何度もお断りするのも失礼になるので、お食事を共にした日が、親しくさせていただく契機になりました。

 お誘いを断り続けていた、若かりし頃の自分に向けてガタガタ言いたいです。私にシャンソンを歌うことを勧めてくださったのは何より淡谷さんですし、実母と私が大ファンだった故・越路吹雪さんとのご縁もつないでいただきましたから。

 淡谷さんが私にシャンソンを勧めてくださった時の言葉は、今も記憶しています。

「若い今はわからないかもしれないけれど、シャンソンはいいわよ。年を取って枯れてきても、キレイな衣装を身に着けてピアノ演奏だけで歌えるから。あなたはマッチョな男らしいイメージではないから、ソフトなシャンソンが向いていると思うわ」

 ご指導どおり「自分には無理かも‥‥」と思いつつ、ワンマンショーなどの合間にシャンソンを歌ったら、かなりウケたんです。

 越路吹雪さんのファンだと淡谷さんにお話ししたのはいつだったか覚えていないけれど、母が大ファンでよく口ずさんでいたんです。近所の人に「少し似ている」なんて言われると大喜びで、私も母の影響でファンになりました。

 というエピソードを雑談でお伝えしたところ、「親子ともどもコーちゃん(越路さんの愛称。旧姓から)のファンで、わたくしはあなたにとってどんな存在なの?」と淡谷さんに聞かれまして。

 淡谷さんは年齢が40歳近く上なのですが、「お母さんのような」と言うのは失礼なので、「身内のお姉様のような方です」と言ったら、「それなら許してあげる。紹介するから」と即、越路さんに電話してご紹介いただきました。

 以後、越路さんとはお家に遊びに行かせていただくほど仲良くさせていただきました。劇場の楽屋へお邪魔させていただいた時のオーラには圧倒されました。「こういう方こそが大スターなんだ。自分はまだまだ修業が足りていない」と痛感した経験でもありました。

 おふたりには共通点があり、口酸っぱく言われていた言葉があります。

「貧乏くさくなるから、お金は貯めちゃダメよ。銀行の通帳を見て、いくら貯まったか、なんて眺めていたら、金額ばかりが気になってしまうだけだから。稼いだ分、使いなさい」

 私はその言葉を受け継いでいますし、おふたりも有言実行していました。

 確か淡谷さんはご自宅を建てる際、土地を購入するのではなく借地でした。あれほどの大スターが「土地なんていらないのよ」と、おっしゃっていました。

 越路さんも同じでした。夫の内藤法美さんを大切に気遣い、それまで賃貸住まいだったのに、彼のために家を建てようとして、完成直前に亡くなってしまったの。

 越路さんは1980年に逝去されましたが、マネージャーとしてずっと連れ添っていた岩谷時子さんの活躍も素晴らしくて。越路さんにとって、戦友というか友達というか、姉妹というか‥‥濃密な関係でした。先述しましたが、越路さんは貯金していないので、海外へ旅行に行くと、「お金が足りないから送金してほしい」とお願いされることもたびたびだったとか(笑)。「コーちゃんは大スターだから常に光り輝いていないといけないから、お金がかかるのは仕方ないの」なんて言いながらも、支えていました。

 私もおふたりの生き様は正しかったと思います。主に自分が使うお金は、自分磨きをするための自己投資。人前に出るお仕事ですから、いつも身ぎれいにしてオシャレをしていたいのです。

 死んでしまったら、お金も名誉も地位も、あの世には持っていけません。今ある仕事を一生懸命頑張って、自分に投資する。この方針が、少しでも皆様の生きる指針になってくれるとうれしい限りです。

美川憲一(みかわ・けんいち)歌手 1946年5月15日生まれ、長野県出身。1965年、「だけどだけどだけど」で歌手デビュー。現在、110枚目のニューシングル「別れてあげる」が好評発売中。

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