皇太子徳仁親王と小和田雅子さま(現天皇・皇后)の「結婚の儀」を翌日に控えた1993年6月8日、巨人とヤクルトの遺恨が遺恨を呼んだ「北陸戦争」が起こった。
長嶋茂雄監督が率いる巨人は、野村克也監督が指揮を執る首位・ヤクルトに1.5ゲーム差に迫っていた。8日富山、そして9日金沢と続く北陸遠征2連戦は、そのヤクルトとの直接対決だった。
午後6時1分、ピリピリしたムードの中、プレーボールがかかった。1回2死一塁で古田敦也が打席に立った。吉原孝介のミットが内角にスッと動いた。宮本和知の3球目が古田の背中を直撃した。
野村が真っ先にベンチを飛び出した。巨人は中畑清コーチが本塁上に駆け付けた。両軍が集まった。小競り合い。一触即発の危険な空気が充満した。何かが起こる予感がした。
次打者・広沢克己の打球が左翼フェンスを直撃すると、一走の古田が本塁に突入した。クロスプレーとなったが巨人の中継がわずかに早かった。体当たりの古田に、吉原も強烈なブロックをかまして激突した。
ここで吉原が倒れた古田にのしかかり、1度、2度とエルボーを落とした。両者は立ち上がってにらみ合った。次打者のジャック・ハウエルが吉原に近寄り、宮本が古田を押した。分け入ろうとしたのだが、これが結果的にアダとなってしまった。
両軍ベンチがアッという間に空っぽになった。富山市民球場が両軍の壮絶なバトルロイヤルの場と化した。
「ふざけんな!」「コイツだ!」「そこをどけ!」怒号が飛ぶ。罵声を浴びせ合った。乱闘だ。ド突き合う。取っ組み合う。蹴り合う。もうメチャクチャである。
ひとかたまりの集団に川相昌弘がジャンプして飛び掛かる。長嶋はレックス・ハドラーにヘッドロックをかける。中畑がハウエルをヘッドロックで倒している。野村も乱闘の輪の中でもみくちゃにされていた。
1分10秒で終了のゴングが鳴った。審判団は吉原とハウエルに退場を宣告した。
「巨人を倒さなければ連覇はない」
野村の分身である古田は、これでもかこれでもかと内角攻めを徹底した。それでも踏み込んでくる打者には胸元へ、打者をのけぞらせるブラッシュボールを投げ込ませた。
7日の時点で巨人はヤクルトから4個の死球を受けていた。特に大きかったのは5月27日の神宮で、好調だった大久保博元が高津臣吾から左手首に四球を受けて左手尺骨骨折。全治3カ月の重傷を負い、今季絶望となった。我慢も限界にきていた。
野村は前日、「(大久保の)逃げ方が悪い」「古田もこの辺(頭部)に来ている。それを何も言わないくせに大久保くらいでガタガタ言うな」と先制口撃し、巨人も「やられたらやり返す」と応酬し、この日を迎えていた。古田への死球は明らかに報復だった。
試合はヤクルト打線が巨人投手陣に14安打を浴びせて9得点、投げては岡林洋一が7安打を浴びながらも完封した。巨人はまさに踏んだり蹴ったりの敗戦となった。
この乱闘は翌94年5月11日、神宮での壮絶な大乱闘劇の前哨戦になった。
猪狩雷太(いかり・らいた/スポーツライター)スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。