プロレス界「戦慄の事件簿」裏取材メモ【1】アントニオ猪木のベロ出し失神、翌日に極秘退院

 週刊アサヒ芸能連載『日本を揺るがしたプロレス界「戦慄の事件簿」裏取材メモ』がいよいよ最終回。長年にわたってプロレスを目撃してきたベテラン記者、小佐野景浩氏とカメラマンの山内猛氏が名勝負とその舞台裏に特別対談で迫る!

小佐野景浩(以下:小佐野) 連載も今回で一区切りということで、プロレスの名勝負の話ということですけど。

山内猛(以下:山内) プロのカメラマンとしては42年経つけど、どうしても印象に残っているのは、猪木、馬場になっちゃうよね。

小佐野 画になるレスラーとなると絶対に外せない。

山内 特に、第1回目のIWGP決勝戦の猪木対ハルク・ホーガンの一戦はカメラマン冥利に尽きる忘れられない試合だった。今度初めて出る著書「プロレスラー」(新潮社)の中でも巻頭に紹介しているのが、ホーガンがエプロンに上がった猪木にアックス・ボンバーを決めている瞬間のショット。アレは僕のカメラマン人生でも会心の一枚だった。

小佐野 普通、アックス・ボンバーのような技は、レスラー同士が正面衝突するから、どちらかの選手は後頭部からのアングルで表情がうかがえない。ところが、山内さんの写真だと猪木もホーガンの表情もすごく生き生きと映っている。

山内 だから、あの瞬間にいたプロレスカメラマンで、このアングルで写真を撮れたのは俺だけだという自負はある。しかも当時はフィルムの時代。すぐ次のカットでは、猪木はエプロンの下に落下しちゃっているから、この瞬間を逃したらやり直しがきかなかっただけに、ベストショットに挙げられるね。

小佐野 決定的瞬間は本で見てもらうとして、猪木ホーガン戦が、プロレス名勝負として語り草になっているのは、やはりこの試合に至るまでの背景やストーリーが紡がれているから。結局、名勝負は試合内容がいいだけでは名勝負たりえない。その点でも第1回のIWGPの決勝は、「世界のベルトを統一する」という錦の御旗を掲げた大会で、新日本プロレスの構想としては、ここでアントニオ猪木が世界一になるというのが宿願だった。ところがこのホーガンの一撃で猪木は舌出し失神。すべてが吹っ飛んでしまった。

山内 当時、僕が所属していた内外タイムスは通常面にプロレスが載ってなかった。会社に戻ったら、共同通信から速報が流れるほどの騒ぎになっていた。慌てて翌日の社会面にぶち込んだ記憶がある。

小佐野 猪木は騒動の最中、翌日の夜には病院を退院。自宅マンションに戻っていた。僕はまだ月刊だった「ゴング」の記者だったけど、ゴングは猪木さんのマンションが見える場所にカメラを張り付かせて決定的な瞬間を押さえた。速報では日刊紙に勝てなかったから、月刊誌で「退院直後の猪木をキャッチ」とやったの。盟友の坂口(征二)さんは「人間不信」と書き置きを残してハワイに失踪するなど、これまでの猪木の神通力が落ちて、新日本の凋落のきっかけとなる事件となりましたね。

山内 猪木絡みでは、ストロング小林戦(74年3月19日)も「昭和の巌流島」と言われ、圧倒的に注目された一戦。

小佐野 僕も猪木の名勝負と言えば、この試合をまず挙げたい。フィニッシュとなった足が宙に浮いちゃうジャーマンとか。あの時、ストロング小林は国際プロレスを辞めていたけど実質的には国際のエースという位置づけ。新日本のエースのアントニオ猪木との対決の構図もさることながら、猪木さんがこの試合に際して、調印式でいきなり小林に張り手したり、試合でもナックルで流血させたりヒールっぽさが際立っていた。新日本は、大木金太郎も含めた日本人対決とタイガー・ジェット・シンとの抗争、翌年のウイリエム・ルスカとの異種格闘技戦で一気に、全日本を凌駕する存在になった。それにしても旗揚げからわずか4年でモハメド・アリ戦にこぎつけた猪木&新間(寿)体制というのは、ある意味で新日本の黄金時代を築いたと言えるでしょうね。

*「週刊アサヒ芸能」5月5・12日号より。【2】につづく

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