プロレス界「戦慄の事件簿」裏取材メモ【2】馬場さんが漏らした「本音」

山内 片やライバルの馬場さんも猪木に負けず劣らずすごいレスラーだった。まず野球選手出身だけあって運動神経がすごかった。あの体躯で打点の高い16文キックもそうだし、32文ロケット砲もバンバンやっていた。

小佐野 馬場さんの実質的な最後の名勝負は、武道館でのスタン・ハンセンとの初めての一騎打ち(82年2月4日・東京体育館)でしょう。ハンセンのラリアット封じの腕殺しと、あの破壊力満点のハンセンの攻撃は説得力抜群。プロレス大賞の年間最高試合にも選ばれた。結果は両者反則でしたが「馬場限界説」を払拭するに十分だった。

山内 ファンの時代から馬場さんのプロレスはスケールの大きさが魅力だった。個人的には日プロのインター王者時代が全盛期。(ブルーノ・)サンマルチノやジン・キニスキー戦でアメリカンプロレスの奥深さに触れた。72年に全日本を旗揚げした時も、実質的な旗揚げ戦である日大講堂(72年10月22日)には、サンマルチノ、テリー(・ファンク)、(フレッド・)ブラッシーなど豪華絢爛。ある意味、プロレスは外国人選手がお目当てだったから、NWAの幹部でもあった馬場さんの全日本には随分、足を運んだ。

小佐野 ただ、80年代になると、WWF(現WWE)がニューヨークから全米に進出。全日本が得意としてきた大物外国人選手の招聘が難しくなる。そこに現れたのが、長州力率いるジャパンプロレス勢のハイスパートレスリング。これが、天龍源一郎を覚醒させ、後の鶴龍対決に結びついた。中でも馬場の時代と後の四天王時代の懸け橋となった最高峰の対決が、89年6月5日の日本武道館での三冠戦。どちらかというと、おとなしい全日本のファンが「ここまで盛り上がるか」と認識を改めるほどの熱い試合だった。

山内 鶴田ってもともとアマレスエリートだけに、鶴龍対決以前は、どこか余裕すら感じさせる雰囲気があった。地方の試合だと、カメラマンに向かって「ハイハイ、ジャンピングニー行くよ」と軽口で話しかけるほど、圧倒的な体力差があった。ところが、鶴龍対決になるとムキになったことで、「怪物伝説」にもつながっていく。

小佐野 とにかくすごいのは、二人がロックアップするだけで迫力が伝わってくること。天龍さんは角界出身だからそんなに感情を表に出さないけど鶴田が相手のマットでは違った。鶴田も膝のサポーターをズラして膝頭でガツンと天龍の顔面に技を決めるから試合が面白くないはずがない。

山内 それが後の四天王の完全決着にまで進化していくんだから大したもんだね。

小佐野 馬場さんも「俺が第一線から退いてから完全決着をつけるようになっていた」と後年漏らしていた。きっと馬場さんほどの大物選手だからこそ、完全決着という究極のスタイルはできなかったというのが本音だったんじゃないかな。

*「週刊アサヒ芸能」5月5・12日号より。【3】につづく

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