戦国時代の“お茶ブーム”仕掛け人は信長だった!「領地よりも茶器が欲しい」

「すきもの」は、今日では「好事家」「色好み」と理解されているが、もともとは「数寄者」とされ、茶の湯など風流、風雅に寄せる人のことだった。つまり、数寄者は好き者に通じ、女や物欲のオタクにも通じていたのかもしれない。

 戦国武将たちは、武将の教養として茶の湯をたしなみとした。ことに織田信長は、堺出身で豪商の出の今井宗久らを重用して当時の武将たちに茶会を開く権利を褒美として与えたりしていた。歴史家の河合敦氏によれば、

「武将たちのお茶ブームを作ったのは信長ですが、それ以前に宗久や千利休の出身地である堺などの豪商や上級の公家などの間ではすでに茶の湯が大ブームであり、信長は茶道具の収集にも熱心。その価値を高騰させて、戦功のあった者に褒美として茶器を与えたりしてブームを演出した」

 秀吉も京都の聚楽第(じゅらくだい)に茶室を設け利休に茶会を開かせて、密談や政治に利用した。ただ、ド派手な大坂城の黄金の茶室など、およそ利休の求めた「わび茶」「わびさび」をまったく理解しない秀吉だった。そのために、結局2人は合わず、利休は秀吉の逆鱗に触れて切腹させられてしまう。切腹の理由も、秀吉がくぐった大徳寺の門の上に利休の像があった不敬罪や、スパイ活動をしていたなど諸説あるが、一説には、利休が娘・お吟を秀吉に差し出すのを拒んだからとも言われている。アラートMAXである。

 利休が京都を追放される時に、処罰覚悟で船着き場まで見送りに行ったのが、利休の弟子であった古田織部。もともと信長、秀吉に仕える武将だった。2011年にテレビアニメにもなった山田芳裕の「へうげもの」(講談社)は、この古田左介(織部)を主人公にしたマンガ。信長、秀吉ら、戦と同じくらいにお茶や茶道具などに血道を上げた武将たちの滑稽なまでのオタクぶりが描かれていてすこぶるおもしろい作品だ。河合氏が解説する。

「織部は、利休には特にかわいがられて、一緒に温泉旅行へ行くほどの仲でした。茶の湯に目覚めたのは当時としては遅く30代後半で、茶器に関して織部は職人たちに自由に創作させ、気に入ったものを選んだ。茶碗や茶入れなどは『キズがないのはおもしろくない』と言って、わざと欠けさせて使ったり、掛け軸も切断して2つ以上に仕立て直したというほどユニークな作風だった」

 利休の死後、織部は秀吉に茶の湯の指南をすることになるのだが、秀吉に、利休由来の「堺の町人風茶式」を武家好みのものに改革するよう命ぜられたという。

「手水鉢(ちょうずばち)には、50人がかりで運ばなくてはならない大きな石を用いたり、茶碗も大きなサイズで派手なものを好んだりしました。三畳半の茶席に、さらに融通席として一畳を加えた大型の茶室を作ったり、茶碗にしても当時は唐物など外国のものが重宝されましたが、織部はあえて誰でも手に入る美濃焼のものを使ったり、師匠・利休のスタイルを革新していきます」(河合氏)

 織部は、大坂夏の陣のあと、豊臣家との内通の嫌疑で、家康に切腹を命じられる。くしくも師匠・利休と同じ運命をたどることになったのだ。

 織田信長がお茶にハマッたきっかけは、足利義昭を奉じて上洛した際、豪商や武家から名品の茶器を献上されたことからとされるが、この時、信長に「九十九髪茄子(つくもなす)」という名品の茶入れを献上したのが、松永弾正こと松永久秀だった。

 松永久秀は、四国・阿波の三好長慶(みよしながよし)に仕え、三好氏が畿内に勢力を拡大することに貢献した。一方で、山崎の戦いで洞ヶ峠を決め込んだことで知られる筒井順慶や三好三人衆と抗争、敵が籠もっていた東大寺の大仏殿を焼き払った人物。まったくなんてことをする乱暴者だと思いきや、茶人としても評価が高かったというから驚く。信長が上洛した時には、すぐさま臣従(しんじゅう)したものの、その後は信長に何度も逆らったり裏切ったり。最期はみずからの居城・信貴山(しぎさん)城に立て籠もって、信長の「秘蔵の平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜」を渡せば罪を許すという説得を無視。この茶釜だけは渡したくないと、釜と一緒に火薬で城ごと爆死してしまう。茶道具に命を張るとは、現代からみると理解しがたいのだが……数寄者とはそういうものかもしれない。

 そんな茶人武将の中でもサイテーな人物として河合氏が挙げるのが、荒木村重だ。

「荒木村重は茶人としても有名でした。信長に取り立てられて摂津一国を与えられながら、毛利や本願寺に通じ信長に反旗を翻したとして、居城の有岡城(現在の伊丹市)で信長軍に包囲されたまま1年近くも籠城。あげく、妻子や重臣を置き去りにして城から逃亡した。息子のいる尼崎城に入りますが、大事な茶道具と愛妾を連れていくのは忘れなかったという、一族郎党を見捨てた究極の自己チュー男です」

 その後、村重の妻や幼い子供たちは京都の六条河原で処刑され、身分の低い家臣らの家族まで処刑された。にもかかわらず、村重は一人、毛利の領国・尾道に逃れ、そこで本能寺の変を迎える。やがて秀吉が台頭すると、秀吉の茶頭や話し相手となる御伽衆(おとぎしゅう)として復活する厚かましさだ。剃髪してみずから「道糞(どうふん)」(道のクソ)と名乗ったというから、自分でもそのサイテーぶりを自覚していたのだろう。

 武田氏が滅亡したあと関東の司令官に任ぜられた滝川一益(たきがわかずます)などは、与えられた上野一国より、「珠光小茄子(じゅこうこなす)」という名茶器が欲しかったと言ったほど。戦国マニアとして知られるお笑い芸人・桐畑トール氏が語る。

「領地より茶器が欲しかったなんていうのは、やはり信長が価値観を変えて、名茶器を所有することを権力のステータスに押し上げたということで、これはすごいことです。昭和のバブル時代に、ゴッホのひまわりの絵を50億円以上も出して買ったり、ゴルフの会員権をバカみたいに数千万円で売買したように、時代によってステータスの価値観は変わるので、今ならきっと、ビットコインみたいな仮想通貨を信長は買ったんでしょうね」

 やはり信長は変革者だったということか。

河合敦(かわい・あつし)1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。多摩大学客員教授。早稲田大学非常勤講師。歴史作家・歴史研究家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。主な著書は「早わかり日本史」(日本実業出版社)、「大久保利通」(小社)、「日本史は逆から学べ《江戸・戦国編》」(光文社知恵の森文庫)など。

桐畑トール(きりはた・とーる)1972年、滋賀県生まれ。滋賀県立伊香高校卒業後、上京し、お笑い芸人に。05年、オフィス北野に移籍し、相方の無法松とお笑いコンビ「ほたるゲンジ」を結成。戦国マニアの芸人による戦国ライブなどを行う。「伊集院光とらじおと」(TBSラジオ)のリポーターとしてレギュラー出演中。現在、TAP(元オフィス北野)を退社しフリー。

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