追悼・金田正一「180キロ、400勝男」愛しのカネヤン伝説

 日本球界唯一の400勝投手・金田正一氏(享年86)が急性胆管炎による敗血症で逝去した。現役時代はスピードガンがなかったため、のちに「ワシは180キロは出ていた」と豪語した球界のレジェンド。その豪傑エピソードで追悼する。

 現役時代はとにかくよく走り込んだ。指導者になっても選手を走り込ませた。だからこそ説得力があり、「近頃のプロ野球選手は全然走り込まない。だからケガをするんじゃ」と、大上段からブッタ切る球界のご意見番として、カネヤンは愛されたのだ。少々時代錯誤でワガママ放題な物言いでも、こと野球に関しては球界の至宝・ONも一目置いた。現役当時を知る球界関係者が語る。

「王さんも長嶋さんも人前で見せるかどうかの違いはあるけど、みずからに猛練習を課すことで有名だった。そんな2人でさえ、晩年に巨人に入団した金田さんの練習量を見てビックリ仰天。ひたすら地道に走り込む姿をみて『あれだけやらないとプロとして大成できないのか‥‥』と、すでにチームの主軸だったONがみずからのフンドシを締め直したといいます」

 そして、ONの金田氏への尊敬の念は78年の「日本プロ野球名球会」の発足時にも垣間見られた。

「名球会は金田さん、長嶋さん、王さんの3人を中心に発足した。中卒で学閥のない金田さんがブイブイ存在感を示せるよう、昭和生まれ以降の選手に限る規定にしたんです。当時の球団別OB会は年功序列が著しく、若い人は一切モノが言えなかった。そこで、球団に関係なく一定の成績を残した選手たちだけの団体を作り、ON主導で金田さんをもり立てようとしたわけです。同時期、金田さんの羽振りのいい時代は終わっていた。同年はロッテの監督も更迭される年でもあります。少しでも実入りになるよう、運営を金田さんに任せる配慮をしたようです」(球界関係者)

 名球会設立のみならず、プロ野球発展に尽力したエピソードは枚挙に暇がない。パ・リーグが不人気の時代、ロッテ監督に就任。熱くなると乱闘に参加してすぐに手も足も出る。相手の顔面をスパイクで蹴り上げることもあり、ファンは熱狂した。通算8度の退場はもはや勲章だろう。

 ファンサービスばかりか「記者サービス」にも熱心だった。ベテラン記者が当時のロッテ担当記者の厚遇ぶりを語る。

「キャンプ中、どこの球団も情報漏洩を嫌って、記者と選手を同じホテルには泊まらせなかった。でもロッテの鹿児島キャンプだけは違っていて、担当記者を同じホテルに泊まらせるように球団に便宜を図ってくれたようなんだ。『桜島を眺めながら選手と大浴場で背中を流し合って、同じ鍋を囲め』なんて言う監督は、後にも先にも金田さんだけだったね」

 口癖のように「担当記者はわれわれのファミリー」とつぶやいていたカネヤンは、記者たちを引き連れて豪快に遊んだ。

「金田さんは賭けごとが好きで、記者たちとも花札や麻雀をして夜を明かした。負けず嫌いの性格だから、負けが続くとサラリーマンの記者には払えない数十万単位の金額を賭けるようになるんだ。みんな金額に物怖じして、最終的に賭け金は全て金田さんに流れちゃう。それでも誰も文句を言わなかったのは、福岡遠征の際、決まって中洲のソープをおごってくれたからな。他球団に比べてロッテの担当記者は少ないっていっても新聞、雑誌で十何人はいるんだから相当の出費だったと思う」(ベテラン記者)

 さらにはキャンプ中、選手の「シモの管理」まで徹底していたという。

「当時のロッテには、週に1回『ヌキ休み』があった。選手がモンモンとした気持ちのままでは練習に身が入らないだろうと、熊本のソープ街に行かせていたよ」(球界関係者)

 もはや永久に破られないであろう通算400勝、365完投という記録を遺して鉄人は旅立った。合掌。

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