発見!「ニッポンの名城」3大秘密(2)「全国にわずか12天守」城郭はなぜ消えた?

 江戸時代に造られ現在まで天守閣が残っている城は全国に12ある。これを総称して「現存12天守」と呼ぶ。かつて戦国時代には全国に数千の城があったにもかかわらず、なぜ12天守だけが、生き延びることができたのか。その秘密を探る。

 歴史家の河合敦氏が話す。

「天守閣が日本の城に付き物になったのは、信長が安土城に天守(信長は天主とした)を造って以降のこと。戦国時代の初期までは峻険な山に土塁と堀を設けた『山城』が一般的だった。つまり天守に石垣だけが日本の城ではないということです。信長は他国の城を征服すると、反撃の拠点にならないよう城自体を破壊することが多かった。家康も大坂の陣で大坂城を攻め落とすと、徹底的に破壊して土を盛って埋め、その後、2代将軍になった徳川秀忠が新たに大坂城を再建するなど、短い間にスクラップ&ビルドが繰り返されています」

 続けて、江戸時代に城の数が減る理由を次のように説明する。

「家康は1615(慶長20)年に豊臣家を滅亡させると、大名の領内に居城以外は認めないという『一国一城令』を発して、無数にあった支城をすべて破壊させた。各大名の『武装解除』を進めていったからです」(河合氏)

 城郭ライターとして活躍し、日本城郭協会理事でもある萩原さちこさんは、江戸時代以降に城が淘汰されていく原因として、この一国一城令に加え、明治維新での廃城令、そして昭和に勃発した太平洋戦争時の空襲などでの焼失、倒壊を挙げる。

「一国一城令で、数千あった城は170余城ほどに減り、明治になって、廃藩置県により、お城自体は不要となり、明治6年の廃城令で、すべての城が廃城処分または存城処分となりました。60ほどの城が存城処分となり陸軍用地として使われることに。天守は、第二次世界大戦下で空襲が激しくなる前の1940年代、まだ20天守が残っていましたが、日本各地が空襲を受けて、水戸城、大垣城、名古屋城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城など7つの天守が焼失または倒壊してしまいます。それから松前城の天守が失火で焼失して、現在まで、戦国時代末期から江戸時代初期に建てられた天守が残っているのは、12天守(ページ下部)のみということになりました」

 現存12天守の分布を見ると、その多くが西日本に多いのはなぜかと言えば、

「天守は、西日本で生まれて西日本で発達するので、もともと西日本に多く分布しています。四国の城は空襲や地震の被害が少なかったということもあるかもしれません。東日本では、東北の会津若松城のように幕末の戊辰戦争でボロボロになり廃城令の前後で取り壊しになる例もあります」

 と萩原氏。

「廃城令により、存城処分として陸軍省管轄の行政財産にするか、廃城処分として大蔵省管轄の普通財産にして売却処分にするかに分けられました。存城処分になったとしても、文化財としての価値があるわけではなくて、陸軍の軍用地としての利用が目的でした」

 例えば姫路城は、存城処分になって陸軍用地として使われていたという。

 また、廃城処分の場合には、誰でも買えるような金額で売りに出されて、材木を薪まきとするなどが当たり前のように行われていたとのこと。

「松本城の天守の場合には、地元の人が天守を買い戻すために、天守で博覧会を開催して、その入場料で資金をまかなったというエピソードがあります。松江城では、旧松江藩士が、城の買い戻しのために奔走したという話も伝わっています。明治以降、主がいなくなった城を守ってきた多くは、そうしたお城を守ろうとした人や住民たちだったのです。そういう意味でも現存する12の天守というのは、かなり奇跡的に残ったと言えると思います」(萩原氏)

■「現存」12天守の秘密(監修:萩原さちこ)

【弘前城(青森県)】主な城主:津軽信枚/築城年:1611/秘密&見どころ:東北地方で唯一、天守、櫓などが現存する。3重の破風の小ぶりな天守ながら、城内側と城外側では装飾が異なる点や、江戸城や姫路城などの江戸幕府系の城と同じ白漆喰壁、妻飾りに銅板が用いられたりするのも見どころ。現在、石垣の補修のため天守が移動中で間近に見ることができる。

【松本城(長野県)】主な城主:石川数正、石川康長/築城年:1593/秘密&見どころ:家康の重臣だった石川数正が、豊臣秀吉に寝返って築城。今となっては全国で唯一の黒漆塗の城。豊臣秀吉の大坂城と同じ黒漆独特の輝きが美しい。天守はじめ、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5つの国宝で構成されている構成美なども見どころ。

【丸岡城(福井県)】主な城主:柴田勝豊/築城年:1613/秘密&見どころ:柴田勝家の甥の勝豊が築城。北陸で唯一の現存天守。寒冷地の対策で全国的にも珍しい石瓦が用いられているのは、意外に知られていないが見どころのひとつ。1576年の築城で現存天守では最古といわれてきたが、1613年に近世城郭に改築されたとする説が有力。

【犬山城(愛知県)】主な城主:織田信康、池田恒興、成瀬正成/築城年:1537/秘密&見どころ:木曽川越しに標高80メートルの断崖の上に建つ姿が美しい城。唐破風の装飾などに特徴があるが、木曽川の対岸からの眺めがおすすめ。小牧・長久手の戦いなど、いくつもの戦乱の中で天守が現在まで残ったのは、奇跡的。

【彦根城(滋賀県)】主な城主:井伊直継、井伊氏/築城年:1604/秘密&見どころ:井伊直政の息子・直継が築城。千鳥破風、唐破風など多種の破風を持つスタイリッシュな天守。明治天皇が北陸巡幸の帰途、保存するようにとの命令を出したとも伝わり、大隈重信が明治天皇に保存を願い出たという説もある。

【姫路城(兵庫県)】主な城主:池田輝政、本多氏、酒井氏/築城年:1601/秘密&見どころ:現在の城は、家康の娘・督姫を正室とした池田輝政が関ヶ原の翌年に築城。家康にとって大坂城の秀頼に対抗するための、美しさだけでなく、戦い、防御のしくみも備えた世界遺産の城。大天守のほかに3つの小天守、それらを繫ぐ4つの渡櫓の8つの国宝の建物が重なり合う構成美に注目。

【松江城(島根県)】主な城主:堀尾吉晴、京極忠高、松平直正/築城年:1607/秘密&見どころ:堀尾吉晴が宍道湖近くに築城。天守の平面積では姫路城に次ぐ広さで、黒い板張りの壁は力強くどっしりとした印象。入り口の附櫓に向けて鉄砲を撃つための狭間が切られ、櫓に攻め込まれた場合には天守から櫓に向けて攻撃できる、戦闘性の高い天守。

【備中松山城(岡山県)】主な城主:三村元親、毛利氏/築城年:1681/秘密&見どころ:1240年に秋庭氏が築城し、天守などは1681年に水谷氏が造った。臥牛山という標高480メートルの山の上にある、唯一山城にある天守。明治の廃城令では、あまりに高所にあるので解体するのも大変ということもあり、放置されて残ったと言われている。

【丸亀城(香川県)】主な城主:生駒氏、山崎氏、京極氏/築城年:1597/秘密&見どころ:一国一城令で廃城となるも、讃岐の分割後、1643年京極氏時代に再築された天守が現存する。4段ある石垣の高さの合計が12天守の中で一番高く一番小さい。城下から見た時に立派に見えるよう工夫されている、扇の勾配という反り返しの石垣が見事。天守からの瀬戸内海の眺めも見どころ。

【松山城(愛媛県)】主な城主:加藤嘉明、蒲生忠知、松平定行/築城年:1602/秘密&見どころ:天守は江戸後期の再建。姫路城の天守群と同じ複数の小天守が多門櫓で繫がっている連立式。現存する天守は、松平定行が城主になった時に大改修をして、その後落雷で焼け、1854年に松平家によって再建されたので、現存天守では唯一徳川の葵の御紋がある。

【宇和島城(愛媛県)】主な城主:藤堂高虎、伊達氏/築城年:1596/秘密&見どころ:築城の名人といわれた藤堂高虎が築城したが、天守は高虎のあとに宇和島伊達藩の2代目藩主となった伊達宗利が建てたもの。すでに平和な時代になっていたので狭間や石落などもない、いわば戦闘性がない天守。天守の入り口の唐破風の下を見ると宇和島伊達藩の家紋が3つ入っている。

【高知城(高知県)】主な城主:山内一豊/築城年:1601/秘密&見どころ:江戸期に焼失、再建された天守、追手門が現存する。屋根の軒先がせり上がった躍動感のある土佐独特の建築技術が使われている。15棟ある現存建造物のうち11棟が本丸内に集まっており、今や全国に4つしか残っていない御殿建築の1つ、本丸御殿が天守に接続する形で残っている。

*写真は姫路城

河合敦(かわい・あつし):65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊に「殿様を襲った『明治』の大事件」(扶桑社文庫)。

萩原さちこ(はぎわら・さちこ):城郭ライター。(一社)城組代表理事、(公財)日本城郭協会理事。執筆業を中心に、講演、メディア出演などを行う。著書に「城の科学」「地形と立地から読み解く『戦国の城』」など。朝日新聞デジタルほか連載多数。
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桐畑トール(きりはた・とーる):72年滋賀県出身。お笑いコンビ「ほたるゲンジ」、歴史好き芸人ユニットを結成し戦国ライブ等に出演、「BANGER!!!」(映画サイト)で時代劇評論を連載中。

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