甲子園準優勝・下関国際は“リアル”スクール・ウォーズだった(2)毅然と「目標は甲子園です」

「スクール・ウォーズ」(大映テレビ制作、TBS系)とは時代が違い、さすがに校内暴力や暴走族全盛の時代ではないが、それでも集団万引きに象徴されるように、素行の悪い生徒が少なくなかったのは事実のようだ。

「誤解を恐れずに言えば、地域の底辺私立校でした。野球部が不祥事を起こし廃部寸前である、という噂を耳にした坂原監督がグラウンドを見ると、草がボーボーと生い茂っていて、野球などまるでできないほど荒れ果てている。衝撃を受けながらも、校長先生に手紙を書いたそうです。『私でよければ野球を指導させてください。無償でもやります』という文面に熱意を感じた校長先生が『ぜひお願いします』と言い、05年8月、坂原監督がボランティアで指導者としての一歩をスタートさせました」(地元紙記者)

 バットやボールなどの道具も満足にそろっていない。不祥事の余波で地方大会にも出られない。そんな環境で坂原監督と部員たちは、グラウンドの雑草をむしり、落書きだらけの部室を新たにペンキ塗りするところから始めた。

 だが当初、基礎を重視した地味で厳しい練習に、部員の大半はついていけなかったという。11人いた部員は、その年の冬までにたったの1人になっていた。

「そんな頃でも、坂原監督は毅然と『目標は甲子園です』と口にしていたそうです。鼻で笑う人がいても曲げなかった。『ダメでもいい、うまくならなくてもいいから3年間やろう。途中で辞めてしまうことが無駄なんだ。学びを持って続けてほしい』と指導し、次の春には、再び野球部に戻ってくる生徒もいたそうです。また、他校のように有望選手をスカウトしようとしても、当然ながら門前払いの連続。新入生の中から野球部経験者の生徒の家に片っ端から連絡し、勧誘したそうです」(スポーツ紙デスク)

 そうした生徒の中には、将来のプロもいた。14年にドラフト6位でロッテ入りした宮﨑敦次投手(18年引退)だ。中学時代に控えのファーストだった宮﨑は、坂原監督の指導で投手に転向。1年生だった08年夏の県大会では、同校14年ぶりの1回戦突破に貢献したが、秋季大会には部員数不足で出場できていない。

 免許を取得し、正式に下関国際の教師になった熱血監督の言う「甲子園出場」は、まだその影すら見えていなかった。

*甲子園準優勝・下関国際は“リアル”スクール・ウォーズだった(3)に続く

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