─全日本は比較的世代交代がうまくいきましたが、新日本は三銃士の登場までかなり混乱しました。
山内 やっぱり猪木さんの凋落が大きかったね。
小佐野 まず83年の夏にクーデターが起きて、翌84年4月にUWFが旗揚げ、6月にはファンの暴動が起きて、9月には長州たちがジャパンプロに移籍してしまった。
山内 蔵前国技館の暴動なんて長州力まで出てきて、ドンドン凋落していった。それまでは絶対的な猪木の力があって、最後締めれば収まっていたのに。カメラマン目線だと、87年10月4日、マサ斎藤との「巌流島の戦い」は鬼気迫るものがあったけど。
小佐野 あの試合は猪木が倍賞美津子さんとの離婚届を提出した直後の試合。おそらく猪木さんの胸中には、離婚報道をカムフラージュする狙いがあったかもしれない。結果的には試合の5日後にバレたけど、それほど私生活が詮索されることもなかったから大成功でしょう。相手が東京プロレス時代から親しいマサ斎藤だったのも大きかった。
山内 ただ印象に残っているのは、やっぱり三銃士の活躍だな。彼らがいたからG1クライマックスはあんなに盛り上がる大会になったし。結果的に全国ドームツアーとかできたのは猪木さんの時代じゃなく三銃士の時代になってから。蝶野も地味かなと思っていたら、ブレイクは最後だったけど、あれよあれよという間に「G1の夏男」になった。
小佐野 最後は「黒のカリスマ」にまで上り詰めるんだからプロレスラーはいかにセルフ・プロデュースが大事かということですね。
山内 三銃士の前史には藤波(辰爾)さんの存在も忘れられない。一時は「優柔不断」なんて揶揄されていた時代もあったけど、やっぱり基礎がしっかりした選手は強いね。
小佐野 藤波さんは長州力を「名勝負数え唄」でブレイクさせた。さらにUWFが新日本に戻ってきて継続参戦できたのも、藤波さんと全日本から来た越中詩郎が、前田や髙田(伸彦=当時=)の技を受けまくって信頼関係を築いたから。
山内 前田の技って危なっかしい部分もあった。大阪城ホール(86年6月12日)での大車輪(ニールキック)での大流血とか長州の蹴撃とかハプニングも多かった。前田のすごさを引き出す藤波の受けの強さは評価すべきでしょう。
小佐野 前田と言えば、アンドレ(・ザ・ジャイアント)との不穏試合(86年4月29日)には現場にいたんですよね。
山内 ギクシャクした変な試合だったなあ。あれはリングサイドにいたけど、最初から控室で他の選手が見守っているし、試合の途中で前田が星野(勘太郎)に「これ本当にやっちゃっていいんですか」とか聞いているんだもんね。ああいう試合はもう今のプロレスでは見られないでしょう。ハプニングも含め個性豊かなレスラーたちがいたからこそ、プロレスは日本でこれだけ根付いたんだろうね。
*「週刊アサヒ芸能」5月5・12日号より