6年目にあたる16年には、背番号が「18」から高校時代のエースナンバー「1」に変更。かつての栄光を取り戻すために試行錯誤の時期が続く。
「10年ぶりに日本一になったシーズンですが、微塵も貢献できず、優勝旅行を含めてオフ返上でトレーニングに励みました。都内のトレーニングジムで筋トレをしてから、鎌ケ谷に通う日々でした」(スポーツ紙デスク)
しかし、球場で2〜3時間程度の練習をしたらすぐに帰ってしまう始末で、それも、
「都内の自宅から高級車で通っていた。通勤時間は往復3時間弱だよ。これじゃ、練習に来ているのかドライブに来たのかわからない。思えば、1年だけハムで重なっている大エース・ダルビッシュ有(35)も、斎藤がKOされた試合中にベンチ裏でメールを打っていた姿に怒り、その後も練習しないことで見限ってしまった」(球界OB)
最後の1軍登板を果たした19年には、栗山監督からオープナーとして短いイニングの先発マウンドを与えてもらうこともあった。
「不躾な記者が、ナチュラルに落ちる球威のない直球について軽口を叩いても本人は『あれは落ち幅の小さいスプリットですよ』と冗談っぽく言い返す元気もあったんですけどね‥‥」(スポーツニューススタッフ)
そんな晩年は、オフの始動が早いこともあり、キャンプイン時は絶好調。周囲の体が出来上がっていないオープン戦がピークで「ミスター・マーチ」と呼ばれていたものだ。来年からはその光景も見られなくなる。
が、気になるのは引退後の身の振り方だ。
「懇意にしている民放キー局関係者が斎藤に接触しています。野球では大成できなかったかもしれませんが、スポーツキャスターをはじめ、抜群の知名度を生かした第2の人生は逆に安泰でしょう」(民放局関係者)
一方、仮に日本ハムが球団内にポストを用意しても、残留する気はないようだ。
「水面下で独立リーグや中国プロ野球からも、コーチや選手としてのオファーが来ているようですが、『野球はもういいです』と周囲に語っている。政界進出の噂もささやかれていますが、どちらかといえば実業家の路線を目指しているそうで、すでに、実家のある群馬県太田市に個人事務所を構えて準備万端。それこそオリジナルのハンカチや、食べ歩くのが趣味のラーメンなど、商品を自らプロデュースするような幅広い事業展開を計画しているようです」(球界関係者)
プロ野球人生よりも長い、セカンドキャリアでの汚名返上に期待したい。本当に〝持ってる〟男ならそれも可能だろうが‥‥。
*「週刊アサヒ芸能」10月21日号より