日本デビュー31周年を迎えたレジェンド・レスラー、ウルティモ・ドラゴン。デビューの地、メキシコのみならず日本やアメリカの2大メジャー団体でも活躍。今も世界からのオファーが絶えない理由は何なのか。先ごろ出版された著書「独学のプロレス」(徳間書店刊)の構成も手がけた小佐野景浩氏が、そのワールドワイドな人気の秘密を分析する!
ウルティモ・ドラゴンのすごさは挙げればキリがないが、日本でプロレスラーになれないと悟るや、メキシコに渡って現地デビュー。確固たる地位を築いたことは、日本のプロレス界でも画期的な出来事だった。
ウルティモは公称で172センチ、83キロ。彼がプロレスラーを志した1980年代のプロレスラーの入門規定は180センチ、82キロ以上だったため、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスでは入門テストも受けさせてもらえず、アントニオ猪木率いる新日本プロレスの門を叩く。入門テストはクリアしたものの、身長を理由に不合格になった。
何とか食い下がって、山本小鉄に通いの練習生になることを認めてもらったものの、正式入門ではないためにスパーリングだけ。受け身やロープワークなどのプロレス専門技術は教えてもらえなかったという。にもかかわらず87年5月13日、メキシコ到着2日目にしてイダルゴ州パチューカで素顔の浅井嘉浩としてデビューする。20歳の時だ。
メキシコのプロレスはルチャ・リブレと呼ばれる空中殺法を主体としたもので、スポーツというよりも大衆芸能。日本のプロレスとはまったく異なるが「日本とは違うなと思いましたけど、試合自体をやったことがなかったので、戸惑いはなかったです」と最初から順応できた。実戦を通して、それこそ「独学」でメキシコのプロレスを学んだのだ。
〈だから新日本プロレスの道場にいる時はプロレスのことは何もわからなかった。メキシコに行ったら、まわりにいろいろヒントがあったので、それを自分なりに解釈していくかにかかっている。その解釈ができた人間だけがバーッと上に行くことができるんですよ〉(著書「独学のプロレス」より。以下同)
デビューわずか3カ月で新日本から修行に来ていた佐野直喜、畑浩和とメキシコ州トリオ王者になり、翌88年には史上最年少(21歳7カ月)、東洋人初のUWA世界ウェルター級王者に君臨。その評判は海を越えて日本にも伝わり、かつては不合格にした新日本からも誘いがかかった。
そうした中、ウルティモが選んだのは新日本ではなく、ルチャ・リブレを日本に直輸入することをうたい文句にした新団体のユニバーサル・レスリング連盟。もし浅井がここで純粋なルチャ・リブレを披露していたら、単なるメキシコからの逆輸入日本人レスラーに終わっていただろうが、彼の鋭いところはルチャ・リブレでも、もちろん日本スタイルでもない、独自のプロレスを披露したことだ。
セカンドロープからバック転で場外の相手にアタックするラ・ケブラーダをはじめとするルチャ・リブレ流の華麗な空中殺法だけでなく、大ブームだったUWFを感じさせる打撃、関節技、スープレックス。それらに新日本のストロング・スタイルの匂いがする喧嘩ファイトをブレンドしたスタイルは新鮮だった。ルチャ・リブレの華麗さを持ちつつ、日本的な要素を加味したファイトはジャパニーズ・ルチャと呼ばれ、90年代の日本人のジュニア・ヘビー級戦士のロールモデルになったのである。
転機になったのは90年。メキシコではUWAから老舗団体EMLL(現CMLL)に移籍、日本ではユニバーサルからSWSに移籍して、素顔の浅井からマスクマンのウルティモ・ドラゴンに変身した。
〈それで僕が「マスクをかぶるなら、タイガーマスクをやりたいんですけど」って言ったら「タイガーマスクもいいけど、こっちの方がいいよ」と提案されたのがウルティモ・ドラゴンでした。「タイガー・タイプのマスクマンはメキシコにもいろいろいる。それにメキシコ人が抱くオリエンタルなイメージは、虎よりも龍の方が強い。だからタイガーマスクよりもドラゴンをイメージしたキャラクターにすべきだと思っている」というのが(EMLLのプロデューサーである)ペーニャさんの考えでした〉
ウルティモ・ドラゴン誕生の瞬間である。
日本では92年6月にSWSが崩壊すると、天龍源一郎が旗揚げしたWARに移籍。ここで対戦したり、タッグを組むことで天龍から日本スタイルを、ザ・グレート・カブキからアメリカン・スタイルを吸収した。
さらにWARと新日本の対抗戦が実現した中で、92年11月22日の両国国技館でエル・サムライからIWGPジュニア王座奪取。
かつて入門できなかった団体のジュニア最高峰のベルトを腰に巻いたウルティモの「僕は6年前、新日本プロレスの練習生になりましたが、体が小さすぎると入門できませんでした。でも、夢を捨てずに頑張れば、こうしてベルトも巻けるんです」というマイクアピールは感動的だった。
〈新日本のリングに初めて上がって、ジュニアの最高峰のIWGPジュニアのベルトに、いきなり挑戦できるのは「ああ、遂に俺もこのリングに上がれるんだね」って感慨深いものがありましたね。(中略)試合後のマイクは‥‥その時に思ったことをストレートにしゃべったということで、完全にアドリブでした。闘龍門では、みんなマイクアピールしてますけど、その原点があの時の僕のマイクかなって思うことがあるんですよね〉
獣神サンダー・ライガーやザ・グレート・サスケとシノギを削り、95年8月にジュニア・ヘビー級の8冠王者になると、いよいよ米2大メジャーのひとつWCWに進出。世界クルーザー級、日本人ではグレート・ムタしか巻いたことがない世界テレビ王座を2度奪取して世界のトップスターに仲間入りした。
〈当時のアメリカは、もうスニーキーなスタイル(塩で目潰しをしたり、レフェリーの目を盗んで首を絞めるような卑怯なスタイル)の日本人レスラーの時代ではなく、向こうのファンも目が肥えていたし、日本のプロレスにはジュニア・ヘビー級があるというのを理解していたから、僕やディーン、エディ・ゲレロ、クリス・ベノワ、クリス・ジェリコ、ミステリオなんかの日本のジュニアのスタイルがウケたんですね。そういう流れでしたよ〉
メキシコ、日本、アメリカの異なるプロレス文化を体感したウルティモは「ルチャはアニメで、アメリカン・プロレスはムービー、日本のプロレスは格闘技、そしてプロレスとはスポーツ・エンターテインメントです」と明快に語る。
98年7月に左肘の手術のミスで長期欠場を余儀なくされ、WCWを離れざるを得なくなったが、それも結果的にはプラスに作用する。WCWに入った直後の97年4月にメキシコでプロレスラー養成学校・闘龍門を開校して、メキシコとアメリカを往復する多忙な毎日を送っていたが、欠場を余儀なくされて指導者・プロデューサーに専念することができたのである。闘龍門は99年1月31日に日本に逆上陸を果たして大きな評判を呼び、闘龍門JAPANという団体に発展。メキシコの学校の卒業生が所属するという体制ができあがった。
選手としては02年9月に復帰すると、03年5月にWWE(当時はWWF)と契約。ウルティモはWCWとWWEの米2大メジャーで活躍した唯一の日本人だ。
04年4月に帰国後は、闘龍門JAPANからさらに発展したドラゴンゲートとは袂を分かってメキシコの学校で選手育成へ。その一方、選手としてはフリーランスになり、日本の各団体、メキシコ、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ各国、南米のペルーなどからオファーを受けて世界各国を転戦。19年9月にラブコールを受けて新体制のドラゴンゲートに合流したが、新型コロナウイルスが世界的に流行する前の昨年1月にはオーストラリアにも遠征した。
「コスチュームが入ったスーツケースがひとつあれば世界中どこでも仕事をすることができる」というのがウルティモ・ドラゴンの矜持である。
そして、その旅は54歳になった今も続いている。
※「週刊アサヒ芸能」3月18日号より