江本孟紀が明かす野村克也の「遺言」(1)亡くなる前夜に虫の知らせ

 不世出の野球人である野村克也氏がみずからの言葉を遺した最期の共著「超一流」(小社刊)が、3月11日に発売。同書の対談相手として野村氏にズバズバと「ストレート評論」を投げ込んだ江本孟紀氏が遺作の制作秘話に加え、「人間・野村克也」を語り尽くしてくれた。

 野村克也氏(享年84)が未明に亡くなった2月11日、江本孟紀氏(72)はキャンプ取材で沖縄を訪れていた。その日の午前中に、訃報を受け取ったそうだ。

 ノムさんと僕が評論家を務めるサンケイスポーツの担当者から「まだ未確定情報だから待機してほしい」と言われていて。そこに、江夏から電話があったんです。出るなり、「今日、野村さんが風呂場で死んだらしいぞ」とね。ああ、本当だったんだ、と思いましたよ。

 虫の知らせ、というわけでもないんだろうけど、前日にちょっとしたことがあって。広島でドミニカ担当をやっていた古沢憲司と私とチームの担当記者らで、行きつけの沖縄料理屋に行ったんですが、その時、知らない電話からの着信履歴が残っていた。その番号の末尾がノムさんの現役時代の背番号「19」だったんです。

「誰やこれ、まさかノムさんと違うやろな?」
 何度か電話をもらったことはあったけど、別に登録していませんでしたから。かけ直したら別のOBだったんですが、それがきっかけとなって「野村話」で盛り上がったんです。古沢はノムさんの現役最晩年、西武時代にベンチでのボヤキを聞かされていて、「今こうしてやれているのも野村さんのおかげだ。あの経験がなければもっと野球を軽く見ていた」と感謝していましたね。そこでふと自分を顧みると、「うーん、昨日はだいぶノムさんの悪口も言うたな」というふうで(苦笑)。まさか翌日にそんな連絡があるとは思いませんからね。

 僕にとってノムさんは、野球人としてやっていく最初のきっかけではあったけど、絶対的な恩師というわけでもなければ、戦友というほど大げさでもない。でも間違いなくある時期は、同じ戦いをしてきた。大スターであり、僕のボールを受けていたバッテリーでもある。引退後は同じメディアの評論家として活動したり、たまにパーティーで顔を合わせたり‥‥結局50年くらい、家族より長いつきあいです。亡くなったと聞いても、親や友達が死んだ、というのともまた違う。

 一報を聞いて、そういういろんなことが全部混ざり合った妙な感傷というか、複雑な気分でしたね。

 江本氏の感傷を後押しした要因はもう一つある。初の共著の制作にあたり、昨年夏から野村氏と対談を繰り返してきたのだ。

 雑誌の対談みたいなものはあったけど、腰を据えてじっくり話すことは、実はこれまでなかったんですよ。飲んだり食ったりのつきあいはなかったので。

 きっとノムさんがもっと若い頃なら「江本なんかと一緒にやれるか」という感じだったと思うんですよ。そういうプライドをずっと持っていた。ここ数年、まあ年齢的なこともあるんでしょうね。だんだんいろいろ受け入れるようになっていたんじゃないですか。

 取材の間は楽しそうでしたよ。昔の話ができる人間が少なくなってきたこともあり、話せること自体が楽しいんでしょうね。僕も時々、話しながらノムさんのことをちょっと持ち上げたりしてね(笑)。

 沖縄から戻って弔問にうかがって、ノムさんの顔を見た時には、そんなことを思い出しました。

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