長らく田中圭一氏(61)は漫画家と会社員の二足のワラジを履いてきた。多忙な日々を送る中で、実は「うつ病」を患っていたのだ。数々のギャグ作品で楽しませてもらっているだけに、うつ体験を綴った「うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち」(17年、KADOKAWA)は衝撃的だった。
《〈2012年5月4日(金)この日はボク田中圭一の命日になる――はずでした〉――漫画「うつヌケ」は田中氏の葬儀のシーンから始まっている。》
本当に自殺をはかろうとしたわけではなくて、「50歳になったら、死んで楽にしてあげるから」と自分を労るように言い聞かせていたというのが真相。それほど苦しかったわけです。
そんな原因不明の苦痛を自覚したのは05年頃、当時の私は小さなソフト会社に勤めていました。ゲーム会社に開発ツールを売る営業でした。入社当初こそ数字的な結果も残せて張り切っていたのですが、肌に合わなかったんでしょうね。
それまでに勤務した玩具メーカーでも同じ営業職。「売り上げ2000万円足らない」なんて悪夢で目を覚ますこともありました。が、そこは体育会系ノリというのか、和やかな職場の雰囲気にだいぶ助けられていたんですね。
そのソフト会社は私以外は全員理系、とにかく合理性を追求する職場でした。プログラミングに集中する同僚に話しかけるのも憚られるような雰囲気で、近くにいるのに「用件はメールで」みたいな、現代では当たり前なのかもしれませんが、当時の私には異常に思えました。
営業成績も下降していくし、挽回しようと立案した企画はまったく売れない。いい加減な仕事をしているわけではないけど、ちっとも楽しくない。すると、頭の中にモヤがかかったような気分が続き、理解力や判断力が鈍っていきました。
仕事に支障が出ることもありました。例えば、営業先に到着したらプレゼン用に持ち歩いていた小型プロジェクターがない。電車の網棚に置き忘れていたのです。このままではいけないと思い、病院へ行くことに。更年期障害か、内臓に疾患でもあるのか、様々な診療科で診てもらったけど異常ナシ。最後に行き着いたのが心療内科でした。
《そこで、うつ病と診断された。薬を服用することで気持ちは安定したが、徐々に効き目は薄れていく。薬を増やされたことに恐怖感を覚え、自己判断で服用をやめた。すると、医師からは怒られてしまう。その時に言われた「あなたのうつ病は一生もの」とのセリフが田中氏の心に突き刺さったという。》
その医師が信用できなくなり、病院を変えました。その後は病院を転々とする泥沼にハマってしまったのです。それでも無理して仕事は続けていました。
そんな時、あれは11年の春でした。昼食を買いに入ったコンビニで見かけた1冊の本に救われたのです。うつを独自の方法で克服した精神科医の著書で、薬でうつは治らない、ただ自分を好きになればいいと書いてあったんです。
私の場合、性に合わない職場にいて、仕事がうまくいかなくなるにつれて、そんな自分を嫌いになっていった。それが原因で体が心に反抗して「うつ」になった。だから、自分を好きになればいい。しかも、その方法も本には書いてありました。目覚めた直後に「自分のことを誉める」のです。
半信半疑で3週間ほど試したところ、効果はテキメンでした。心の中の霧が晴れていくのを実感できました。ちょうど50歳を迎える頃で、会社からリストラされたのですが、その時も「これで自分に合う会社に転職できる」と前向きになれた。
電子書籍の会社に潜り込んで、漫画家のキャリアを生かせる仕事に就けて、それなりに順調でした。でも完全にトンネルを脱したわけではありませんでした。
時々、不安に襲われる日が訪れるのです。うつはぶり返しながら快方へ向かう––このことは理解していたのですが、その原因を探るうちにハタと気づいたのです。寒暖差の激しい日に不安感がやってくることが‥‥。意外と気温や気圧など外的要因でうつを発症するという人がSNSにもいて、確信に変わりましたね。
天気予報で自分の心を予測できるのですから、コントロールできたのも同じ。そうなってくると、途端に不安とは無縁な日が増えていきました。医学的にはうつ病に完治はなく「寛解」と呼ぶのですが、今の私は「完治」したと思っています。
田中圭一(たなか・けいいち)1962年大阪府生まれ。近畿大学法学部卒。大学在学中に漫画家デビュー。86年開始の「ドクター秩父山」がアニメ化されるほどの人気を博す。一方で卒業後は玩具メーカーに勤務。兼業しながら「昆虫物語ピースケの冒険」を週刊少年サンデーに連載するなど旺盛な創作活動を続ける。95年以降、確立したパロディの作風で〝イタコ漫画家〟と称される。京都精華大学マンガ学部教授でもある。
「週刊アサヒ芸能」3月28日号掲載