当時の小橋氏には「どうしても出場したい」試合が控えていた。06年7月16日、高山善廣(57)の脳梗塞からの復帰戦だった。
「セカンドオピニオンを求めた信頼できる先生に『試合後に手術します』と宣言したんですが、答えはノーでした。『衝撃で腎臓が破裂したら、ガン細胞が飛び散る可能性があり、命の保証ができない』と。自分の命だけなら自己責任だけど、『送り出した家族はどう思うか。まして出場を許可した会社に責任を負わせる気ですか』と諭され、そこで諦めがつきました」
その7月、小橋氏は手術を受けた。右腎臓を全摘出する手術で5時間半に及んだが無事成功。ファンには「復帰に向けて、少しずつリハビリをしたい」とコメントを発表した。が、実際には絶望に苛まれていたのだ。
「立ち上がって、歩くのもキツい状態で、そうした体力面もそうですが、何より精神的な打撃がキツかった。手術前夜、担当医からは『プロレスに復帰するための手術ではなく、生きるために手術します』と言われたんです。もちろん僕を激励する言葉でしたが、退院後に1人で自宅ベッドにいると、これから何を目標に生きていけばいいのか…と考えて、完全に闇に堕ちてしまったんです」
体づくりのためにタンパク質を中心に摂取してきた食生活も禁じられた。それが追い打ちをかける。
「腎臓摘出後に最適なエビフライというのがあって、これを食べてみたのですが、分厚い衣に覆われたエビは鉛筆並みの細さ…。低タンパク高カロリーの食生活を強いられた。ある日、鏡の中の自分の体と対面した時、絶望しかなかった。どん底を這い回っているような日々でした」
それでも生きている――そう実感できたのは、周囲の人々の存在だった。
「ファンのみんなが会社に千羽鶴を贈って励ましてくれて、忙しい合間を縫って彼女も生活を支えてくれた。僕1人だけでガンと闘っているんじゃない。それが大きな後押しになりました。そうだ、生きるためにプロレスの力を借りようと考えられるようになったのです」
12月10日、日本武道館で手術後初めてファンの前に姿を見せて「必ずリングに帰ってきます」と誓った。
「その3日後に検査があり、先生に復帰していいか聞くと『一緒に頑張りましょう』と力強く言ってくれたんです。それからの1年間は腎臓の数値と睨み合いながらトレーニングをして、体を作っていきました。少しでも数値が悪くなれば復帰を諦めなければならないギリギリのところでしたが、全力で突き進むしかなかった。復帰に失敗してもチャレンジをしたことは絶対、人生の無駄になるわけがないと信じて…」
そして07年12月2日、武道館の花道に小橋氏は立っていた。テーマ曲「GRAND SWORD」と割れんばかりの小橋コールに包まれて、待望の復帰戦を迎えたのだ。試合には敗れたものの腎臓ガンには勝った。最後に小橋氏はこう言った。
「生きていれば、それが周りの人の喜びになり、おのずと生きる意味は見つかるんです」
(つづく)
小橋建太(こばし・けんた)1967年京都府生まれ。87年に全日本プロレスに入門し、96年に三冠ヘビー級王者を戴冠。00年にプロレスリング・ノアに移籍後もGHCヘビー級王座を獲得。無類の強さを発揮した。その最中の06年に腎臓ガンが発覚。546日ぶりに復帰を果たし、現役を引退する13年まで第一線で活躍した。現在は株式会社Fortune KK社長としてジム経営、講演活動、プロレス大会のプロデュースに取り組む。