─お二人はそれぞれ松下電器産業(現・パナソニック)、NHKの局員でしたが、脱サラをして漫画家、ジャーナリストとして活躍されています。「第2の人生」というのは、読者にとっても非常に悩ましい大きな選択のひとつだと思うのですが、お二人の転職のきっかけを教えていただけますか。
弘兼 池上さんがNHKを退社されたのは何歳の時なんですか。
池上 54歳です。NHKの場合、一般の管理職は60歳で定年ですが、私は役職だったため、定年が57歳。次は取締役で子会社へ、という流れだったと思います。当時、すでに早期退職制度が始まっていて、定年の3年前から早期退職が認められていた。これを利用しない手はないと思ったんです。
弘兼 第2の人生を始めようと思ったら、早ければ早いほどいいと。決心する時は悩みましたか。
池上 全然、悩まなかったですね。
弘兼 すでに他局から声がかかっていたからですか?
池上 まったく。一切ありません。ただ、私は記者なので、自分で取材に行って原稿を書きたい。そんな思いが募っていた頃、出版社から「ニュースの解説を本にしませんか」というお話をいただき、本を書いたら、そこそこ売れたんです。53歳で辞めようとしたら、「週刊こどもニュース」のスタッフから「もう1年残ってくれ」と言われまして。でも、辞めたくて仕方がないので、この1年間が本当にストレスでした。3月31日の夜、「辞表を認める」という辞令をもらって、NHKの西口の道路を渡ったとたん、「ああ、全てから解放された」と、本当にうれしかったことを覚えています。
弘兼 私は入社3年目の25歳の時に辞めました。ある時、俺は漫画家になりたかったんじゃないか、とハタと気づいたんです。そんな時、たまたま、ニューヨークに転勤の話があったものですから、上司への返事に「漫画家になるので辞めさせてください!」と言って退職。特に誰にも止められませんでした。
池上 せっかくのいい話じゃないですか。ニューヨークから戻ってきてからでも、とは思わなかったんですか。当時、海外赴任に選ばれることは難しかったと思います。
弘兼 会社勤めだと帰宅時間がどうしても夜遅くなり、1日1コマも描けない。それでは1作を作るのに1年以上かかってしまう。ストーリー漫画を描くのなら、辞めるしかなかったんです。まだ独身でしたから、何の躊躇もなかったです。
─現在、池上さんはテレビ出演や執筆のほか、いくつかの大学で講義をされていますよね。
池上 はい。今、東京工業大学、名城大学、愛知学院大学など9つの大学で授業を持っています。信州大学は集中講義ですから、5日間毎日90分の授業を3コマ、計15コマあり、試験をやって、採点もしています。
弘兼 それはすごい。僕も以前、広島大学や山口大学などで講義をしたことがあります。地方の場合だと、移動時間なども考えると、きつくないですか。そこまでして、教壇に立つことにこだわる理由は何でしょう。
池上 いい質問です(笑)。60歳の還暦を迎えた時に、ここまで来られたのは親のおかげもあるけれど、高等教育を受けさせてくれた日本社会のおかげだと思ったんです。これから先の「第2の人生」は、世の中に恩返しをしなくてはいけない。私に何ができるかといったら、持っている知識を伝えるしかない。そう思っていた矢先に、たまたま東京工業大学から「先生になりませんか」とお話を受けたんです。
弘兼憲史(ひろかね・けんし)1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部卒業。松下電器産業(現パナソニック)に勤務後、74年に「風薫る」で漫画家デビュー。84年に「人間交差点」で小学館漫画賞を受賞。91年「課長島耕作」で講談社漫画賞、講談社漫画賞特別賞、00年「黄昏流星群」で文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、03年日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年には紫綬褒章を受章。「男子の作法」(SBクリエイティブ)など著書多数。
池上彰(いけがみ・あきら)1950年、長野県生まれ。慶應義塾大学卒業後、73年にNHK入局。報道局社会部でさまざまな事件を担当。94年より11年間、「週刊こどもニュース」のお父さん役として活躍。05年にNHKを退社、フリージャーナリストとして多方面で活躍。16年4月から名城大学教授、東京工業大学特命教授。愛知学院大学、立教大学、信州大学、関西学院大学、日本大学、順天堂大学、東京大学などでも講義する。「伝える力」シリーズ(PHP新書)、「私たちはどう働くべきか」(徳間書店)など著書多数。