高倉健、唯一の連続ドラマ主演作が斬新だった/俺たちの70年代ドラマ(4)

 テレビが一家団欒のツールだった70年代、まさに「ファミリードラマ」が花盛りだった。今も語り継がれる名作の数々について、その「愛で方」をテレビ解説者の木村隆志氏にご教示してもらおう。

 70年代に本格的なテレビドラマの時代が到来して、向田邦子さんや久世光彦さんといったスター脚本家や演出家が出てきました。現代の作品にも繫がる、ホームドラマの名作が続々と生み出されていったのです。

 65年に単発ドラマとして放送された「時間ですよ」(70年、TBS系)が、70年代に入ってシリーズ化されます。

 昭和後期には「とんねるず」が出演したり、平成に入ってからもリメイクされ、時代を超えて引き継がれていったホームドラマの代表作です。

 森光子さん演じる銭湯の女将さんがいて、家族や従業員、周囲を巻き込んでの人情喜劇。作品のフォーマット自体は同時代の「寺内貫太郎一家」(74年)や「ありがとう」(70〜75年)、「肝っ玉かあさん」(68〜72年、いずれもTBS系)などと似ている部分もありましたが、昭和の日本を思い起こさせる「銭湯」が舞台というのが唯一無二でした。

 女性のヌードが登場する女湯シーンが印象に残っている人も多いのではないでしょうか。見ている家族が気まずい思いをする、珍しいホームドラマでしたね。

「寺内貫太郎一家」は、石頭の頑固親父を中心とした日常を描きました。

 当時はあそこまで恰幅のいい俳優さんはほとんどいなかったですし、髪を切って坊主にしたこともあって、初めは作曲家の小林亜星さんが演じているとわからなかった視聴者も多かった。

 食事をぶちまける「ちゃぶ台返し」をするわ、息子をぶん投げるわ‥‥。とにかく頑固親父ぶりが強烈で、今なら通報モノ以外の何物でもありません(笑)。それでも当時は、そうした家庭内の迫力あるケンカシーンが見所になっていました。

 ケンカはしても、結果的には愛情という着地点に向かっていくわけですが、そこは向田さんの作品ということで、ただの喜劇では終わりません。「生きていくこと」や「老いにどう向き合うか」といったテーマで視聴者に考えさせ、そこも見応えになっていましたね。

「あにき」(77年、TBS系)は高倉健さんにとって唯一の連続ドラマ主演作。とび職の頭を演じる健さんが、不器用ながらひたむきに大原麗子さん扮する妹を愛する姿が格好いいんですよね。

 健さんのテレビドラマ出演に加えて、脚本も倉本聰さん担当ということで、脇を固めるキャストも秋吉久美子さんや田中邦衛さんなど、かなり豪華でした。

 健さんの意向やスケジュールが反映されたのでしょうが、放送期間は半年や1年が当たり前だった当時としては珍しい1クール。「時間ですよ」や「寺内貫太郎一家」のように〝毎回のように何か問題が起きてそれを解決する〟といった一話完結型ではなく、兄妹愛という大きなテーマを3カ月間かけてじっくり描いていくというのも斬新でした。

「パパと呼ばないで」(72〜73年、日テレ系)もファンの多い作品でしたね。柳沢慎吾さんなどが主演の石立鉄男さんのモノマネをしていたので、見てはいなくても知っている人もいるでしょう。一言でいえば、平成の「マルモのおきて」(11年、フジ系)の原型作品ですね。

 独身男が亡くなったお姉さんの娘を引き取って、下宿先の精米店の一家や近所の人に助けられながら、だんだんと心を通わせて親子以上の関係になっていく。「子供」という普遍的に親しまれやすいジャンルの強みもあって、ストーリー上であまり難しいことはやらず、ストレートに心に訴えかけてくる作品でした。不器用な独身男の主人公もそうですし、応援してくれる周りの人たちも含めてとにかく温かみを感じさせてくれました。

 そして80年代に近づく中で登場したのが「ムー一族」(78〜79年、TBS系)。久世さんの演出作品ですが、劇中でいきなり歌が始まったりして、挿入歌の「お化けのロック」や「林檎殺人事件」がヒットするなど斬新でした。だんだんと遊び心がエスカレートして、生放送まで行い、セリフを間違えてもやっちゃえとなった。遊びの要素が80年代の開放感に向かい、こんなに幅広くなったんだという70年代ホームドラマのゴールのような作品でしたね。

 70年代は「ホームドラマ」と言いながら単純な家族だけの物語ではなく、地域や職場、馴染の店が大きくかかわり合っていた。当時は住み込みも多かったですし、血の繫がりのない周囲の人たちも広い意味で「家族」として捉えていた部分があります。だからこそ視聴者も感情移入して、作品を身近な存在として楽しめたのでしょうね。

*週刊アサヒ芸能6月29日号掲載

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