「あさま山荘事件」連合赤軍兵士が「総括リンチとその後」を語った【3】警察に駆け込んでいれば…

 2月7日、皆と移動途中の渋川のバスターミナルで、前澤辰昌は逃亡する。当初から共産主義化や敗北死という規定に疑問を持っており、3度目のチャンスでの逃亡決行だった。

 12名の死後、警察の捜査が迫ってきたことから、9名の連合赤軍兵士は群馬から長野へと、1000メートル級の雪山を尾根伝いに踏破する。このコースを決め、先頭で雪をかき分けて進むラッセルを行ったのが、植垣康博だった。

「冬山は道が分からないから、山の地形を読んで方向を定めていく、そういう地理の知識が必要になってくる。夜の移動で灯りも使わないから、星の位置で方向を読むとなると、はっきり言って僕以外に誰もいないもんね。高校時代に天文の勉強を一生懸命やってたが、まさかそれがここで役に立つとは思ってなかったけどさ」(植垣康博)

 佐久市に出るはずが、着いたのは軽井沢だった。買い出しに出た植垣ら4人は、異臭で怪しまれて通報され、軽井沢駅で逮捕された。

 残った5人が、あさま山荘に籠城する。熱海で働いていた前澤は、それをテレビで見た。

「なんとも虚しいというか。あさま山荘が始まった時は、殴り殺されるのは嫌だけど、銃撃戦で死ぬのは納得できるというか、撃ち合いやってあそこで死ねば、なんとか助かったみたいな気分があった。撃ち合いで撃たれりゃいいのにって思った。だいたい人質取るなんて、おかしいんだよね」

 指名手配された岩田と前澤は、出頭して逮捕されることになる。

 19歳で逮捕された加藤倫教は、懲役13年の刑で服役した。出所後は愛知県刈谷で家業の農業を継いだ。環境活動家として、藤前干潟をラムサール条約登録にこぎつけ、愛知万博の会場にされかかった里山「海上の森」を守るなどの成果を上げている。

 前澤辰昌は、懲役15年の刑で服役した。東北の自然豊かな地で友人たちに囲まれて暮らし、現役のペンキ職人として働いている。

 植垣康博は、懲役20年の刑で服役。出所後に静岡市に開いた「スナック・バロン」は昨年で開店20周年を迎えた。

 岩田平治は、懲役5年の刑で服役し、出所2年後に幼馴染みと結婚。孫が4人いる。地元で仲間とともに起業して現在に至っている。動物や少女をかたどった「組木」という木工の玩具を作り、知り合った子供たちに贈って、喜ぶ顔を見るのを楽しみにしているそうだ。

 50年を迎えて、改めて振り返ってもらった。

「あさま山荘事件という社会的な大きな事件から50年が経って、今また歴史的な転換期を迎えているなということを私は今、感じています」(加藤倫教)

「今から考えれば、逃亡した時に警察に駆け込んでいれば、縛られてた遠山さんたちや、その後の人たちも助かったかもしれません。だけど、当時はまだ共同幻想に囚われていました」(岩田平治)

 それぞれの兵士は、ごく普通の人々だった。連合赤軍とは何だったのか。その謎は、簡単には解けるものではない。

深笛義也(ノンフィクションライター)

*「週刊アサヒ芸能」2月24日号より

(写真はNHKアーカイブスより)

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