「あさま山荘事件」連合赤軍兵士が「総括リンチとその後」を語った【2】殴ることは本人への援助

 東京都府中市の是政にあるアジトで逮捕された時に、刑事と雑談した一件を加藤能敬は、森に追及される。警察は絶対的な敵対関係だから取り調べではない雑談にも応じてはならないとされていたからだ。小嶋和子も「私、この間変わったんよ。明るくなることにしたの」という言葉が森によって問題とされた。

 2人には総括が求められるが、初めは机を挟んで語り合うというものだった。それが一変したのが12月26日の夜。小嶋和子と加藤能敬がキスしているのを見た永田が、新党結成の場が穢(けが)されたといきり立ったのである。

「その時は、なんでこんな時に彼女といちゃついたりするんだ、つけ込まれるようなことをするんだという気持ちでした。へたを打ったとさえ思いました」(加藤倫教)

 森が、指導として殴ることを提案。疑問を呈する声もあったが、殴って気絶させ、気絶から覚めた時に、生まれ変わって共産主義化を受け入れる、との理論を森は展開。殴ることは本人への援助だとされた。寝ていた兵士たちが起こされて、2人を殴ることに参加していく。

「幹部が見てるから殴ったということじゃない。やらなきゃ自分がやられるという話でもない。自分の中で思い描いた革命戦士というのは、対幻想である恋人だとか家族だとかへの、自分のいろんな想いを抹殺していくというか、抑圧していかないといけないんだって考えたわけです」(岩田平治)

「(総括中に)小嶋とキスしたとかには、ふざけんじゃねえみたいな気持ちはあったね。だからって殴れっていうのは、またちょっと違うんだけど。でもまるっきり自分を守るために指導部の言う通り殴るというだけじゃなくて、この野郎、一発ぐらいぶん殴ってやる、みたいな気分も最初はやっぱりあったよね」(前澤辰昌)

 やがて小嶋和子と加藤能敬は、逃亡の意思ありとして縛られる。29日には尾崎充男に総括が求められ、暴行が加えられるが、2日後の31日に死に至る。共産主義化が成し遂げられなかった〝敗北死〟であると、森は規定した。死の原因が本人に帰せられたのだ。

 年が明けた72年1月1日、進藤隆三郎に総括が求められ、その日のうちに死亡。その後、同様のリンチが連綿と繰り返され、死者は12名に至った。

 総括を求められる理由は様々で、遠山美枝子は、山に来ても化粧や指輪をしていたこと。山田孝は都市に活動に出た時に、銭湯に入ったことだった。

「総括をかけられる理由はそれぞれでしたけど、『こいつは逃げ出すんじゃないか』という疑いがそこにはあるわけですよ。それは森や永田たち本人に、逃げ出したいという志向があるから、そう考えるんです。彼らは指名手配されているから、逃げようがないわけですけど」(加藤倫教)

 名古屋にカンパ集めなどで出ていた岩田平治は、1月18日、一緒にいた伊藤和子に闘争からの離脱を告げた。

「山でやっていることは正しいかもしれない、人まで殺してやろうとする革命は成就するかもしれない、だけどももう自分はついていけない、それで反革命と言われるなら、反革命で仕方がない」

 山岳ベースから追っ手が来ることを予測して、岩田は和歌山県の山奥で働いた。

深笛義也(ノンフィクションライター)

*「あさま山荘事件」連合赤軍兵士が「総括リンチとその後」を語った【2】につづく

(写真はNHKアーカイブスより)

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