前方後円墳は日本の独自デザイン/今から始める古墳入門(3)

 全国に広がった前方後円墳は突如として消滅し、陵墓は小型化して新たな形の古墳が造られるようになる。その秘密を探ると‥‥。

 消滅の原因のひとつに、大化の改新の一環として大化2(646)年に発布された「薄葬令」が影響しているのではないかと、河合氏は推察している。

「庶民の負担を減らすため埋葬を質素にする命令ですが、中央集権が進み、権力の象徴としての古墳の意味がなくなっていったことに加え、仏教が入ってきたことで、火葬などが普及してきたことも陵墓が小さくなっていった理由ではないか」

 古墳時代の巨大古墳は、圧倒的に前方後円墳だが、それ以後には、様々な形の古墳が誕生してくる。

 古墳の形の変化を、先の河野氏は、次のように語る。

「前方後円墳は、世界的にみてもユニークな形をしていて、日本列島にしか見られない日本オリジナルの形です。ごくごく一部、5世紀頃に朝鮮半島の南西部あたりにちょっとだけ見られますが、これは日本列島との関係性の中で造られたものと言われています」

 さらに、河野氏は大きな陵墓がヤマト王権の所在する近畿地方以外で造られない理由について、

「古墳は同じ規格で造られるということが多く、それゆえに大王墓を基本にしてその2分の1とか4分の1の規格で地方の古墳は造られています。恐らく設計図的なものはあったし、古墳造りの専門家や職人もいたと思われます。ヤマト王権が全国各地の豪族たちを広域的に支配していたので、地方の豪族はヤマト王権よりも大きな陵墓は造ることが許されなかったのです」

 また、古墳の多様性については、

「前方後円墳のほかには、方墳、円墳、さらに前方後方墳など、多種多様な古墳が存在して、これも世界的にみるとかなりユニークなことです。前方後円墳が古墳の格としては頂点にあって、前方後方墳、円墳、方墳になるに従って格がどんどん下がっていくという感じです。方墳は7世紀以降に格が高くなりますが、蘇我氏系列の人の墓に用いられたことが一因です。たとえば、飛鳥の『石舞台(いしぶたい)古墳』などです」(河野氏)

 目下、河合氏は、教科書には数年前まで出ていなかった「八角墳(はっかくふん)」に注目している。

「7世紀半ばぐらいに出現したとされて、『古墳時代終末期』の天皇陵とする研究者もいます。舒明(じょめい)天皇から文武(もんむ)天皇までの天皇陵は八角形をしていたと言われています。天皇は八方、つまり〝世界を支配する〟という意味で、天皇の陵墓に用いられた形と思われます」

 さらに、埴輪を見れば、その古墳の時代がわかるようで、

「ヤマト王権の発展とともに、埴輪をはじめとした副葬品なども変わってきます。最初は、奈良の纏向など大和に多かった巨大古墳が、5世紀になると現在の大阪・堺などに移ってくる。支配者・権力者の姿も、その副葬品なども、最初の頃は、勾玉や鏡といった呪術的、司祭者的なものだったが、大阪平野の巨大古墳では武具や馬具だったり武器などに変わってきます。ヤマト王権が武力で各地を平定支配していく過程で、豪族に求められるリーダー像も、呪術を操る者から武人に変わっていったことの表れだと考えられます」(河合氏)

 一方、大きなものをミニチュアにするという発想がカワイイと、まりこふんは、独自の埴輪愛を熱く語る。

「バラエティー豊かな埴輪は、現代のアートにもつながっている気がしますね」

 埴輪の作られ方の違いを指摘するのは河野氏だ。

「奈良とか大阪のヤマト王権の中心地で、なおかつ大王墓にかかわっていた埴輪職人(工人)などは、相当高い技術、腕を持っていて、かなり出来のいい埴輪を作っていますが、地方や関東などになると、こんなテキトーでいいのというような埴輪が出土します。『踊る人々』と呼ばれている、『おそ松くん』のイヤミの〝シェー〟をしているような埴輪もそうですが、衣装なども省略された素朴なものがたくさんあります。たぶん当時の庶民というか農民たちが農閑期に埴輪を作っていたりしたのではないでしょうか。窯で焼いていた時に、ひしゃげて壊れちゃったりしたものでも、古墳に立ててたりするのです。大王墓に立てる埴輪だったら怒られてしまうと思うのですが、出来損ないの埴輪でもまあいいや的に並べてあって、地方によっては、大らかな社会もあったと思われます」

 たまたま大阪に行った時に、あまりに大きすぎて仁徳天皇陵の形を見ることができず、ガッカリしたまりこふんは、リベンジで地元・埼玉の「さきたま古墳群」を見に行って、その姿に感動。以来、全国各地の古墳巡りの「沼」にハマッたという。

 全国には小さいものを含めると、古墳は16万基ぐらいあるとされ、コンビニの3倍近くはあるとも言われる。

「神社の奥にある小高いこんもりとした山は、たいてい古墳だと思って間違いありません」

 と、河合氏。つまり、どこにでもあるのが古墳なのだ。これを機会に、いずれ、「お世話になる」自らの「墳墓」に思いを馳せながら、「ご近所古墳」を訪ねてみるのも一興だろう。

河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。近著:「絵画と写真で掘り起こす『オトナの日本史講座』」(祥伝社)。

河野正訓(かわの・まさのり)81年、山口県生まれ。東京国立博物館主任研究員。明治大学で考古学を専攻し、京都大学大学院の考古学専修。博士(文学)。専門は古墳時代の考古学。

まりこふん 古墳への愛を歌う古墳シンガー。2013年に「古墳にコーフン協会」を設立、会長を務める。著書に、「まりこふんの古墳ブック」(山と渓谷社)、「古墳の歩き方」(扶桑社)がある。

*「週刊アサヒ芸能」9月9日号より

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