田中裕二&太田光の爆笑問題は、昨年、2018年がデビュー30年のメモリアルイヤーだった。今では司会者として番組を仕切ることが多い2人だが、隔月で開催している所属事務所の「タイタンライブ」では、漫才の新ネタを披露するストイックな一面を持っている。
大ベテランとなってもなお、新ネタを作ることを自らに課すのにはワケがある。新人時代、太田プロダクションから独立したことによって芸能界を干されたとき、まさに芸が身を助けてくれたからだ。
「デビュー2年後、一方的な独立が原因となって、その後のおよそ3年間、2人は表舞台から消えました。仕事がゼロのとき、太田は月に1度のお笑いライブだけのためにネタを書いていました。当時の彼女で、現在はタイタン代表である光代さんはパチンコ屋でアルバイト。内職もしています。やがて、太田に映画の脚本といった書く仕事が増え、93年にタイタンを設立。爆問は『NHK新人演芸大賞』を受賞して、“ボキャブラブーム”(フジテレビ系『タモリのボキャブラ天国』)に乗り、現在の礎を築いたのです。まさに芸が身を助けたわけです」(エンタメ誌ライター)
太田夫婦と田中の三人四脚によって、会社は着実に拡充している。その結束をより強固にしたのは、設立5年後に見舞われた悲劇だろう。
「所属芸人の『キリングセンス』の萩原正人が、B型肝炎と肝硬変末期であることがわかり、余命半年を宣告されたんです。海外移植の手があることがわかりましたが、渡航費や滞在費、手術費で計5000万円も必要になりました。太田の尽力、『トリオジャパン』という移植患者のボランティア団体の縁もあって、渡航して手術に成功、無事に生還しています」(前出・エンタメ誌ライター)
肝臓と腎臓を移植したあと15年には生体腎臓を再移植して、何度も生死をさまよった萩原。現在は「ハギワラマサヒト」の名でライブ、執筆、講演活動でタイタンに身を置く文化人だ。
ちなみに、日本人で肝臓と腎臓を同時に移植したのは萩原が初めて。夫婦が初渡米したとき、太田は自著「爆笑問題の日本原論」が10万部を突破した記念に、版元の宝島社から贈られた高級時計を、マネージャーを介して萩原に渡している。そのお返しに萩原は、安いデジタル時計を太田に手渡した。
爆笑問題が30年も芸人を続けてこられた理由は、ひとつではないだろう。しかし芸事を重んじ、仲間を大切にする気持ちを失わなかったことは大きい。太田の家に、今もひっそり眠る安いデジタル時計。それは、爆問の忘れえないもうひとつの歴史である。
(北村ともこ)