著者はピュリッツァー賞を受賞した元ワシントン・ポスト記者。
登場人物のブレント・カミングスは、イラク戦争に従軍し、イスラエルにも派遣された帰還兵だ。軍人として民主主義を守ることを信条に戦ってきた規律を守り、正しく生きることを誇りにする典型的なホワイトアメリカンである。
しかし、イラク戦争では部下を14人も失うという苛烈な体験をしたため、たびたび悪夢に眠りを妨げられている。この悪夢は帰還兵にとって大問題であり、アフガニスタンとイラク戦争で約6800人の米軍兵士が亡くなったが、実は毎年約8000人もが、この悪夢で自殺に追い込まれているという。
本書は、ブレントが16年(トランプ勝利)と20年(バイデン勝利)の大統領選挙をどのように見たのかを小説のように描くノンフィクションである。彼は、軍人であるため、最高司令官である大統領の批判は一切口にしない。しかし、トランプが民衆を煽り、暴力をけしかける様子を見て、暴力のことを本当にわかっているのだろうかと不信感を募らせる。
トランプが大統領になったことで「どうしてだ? 自分はなんのためにイラクで戦ってきたのか」と自分自身にも不信感を募らせる。もう一人の登場人物、隣人のマイケルは神への信仰と妻への愛情でつつましく生きている筋金入りのトランプ支持者である。民主党は社会主義者の集まりであると徹底的に嫌悪している。20年の大統領選挙では、トランプが負けを認めないため支持者たちは暴徒と化した。その際のトランプの薄ら笑みは悪夢に登場する暴力を肯定する笑いだった。
ブレントとマイケルとの間に深い溝ができた。「怯えることばかりだ」とマイケル。「まったくね」とブレント。何気ない会話にギリギリの緊張感が走る。ブレントは「敵はもはやイラク人ではなかった。隣で暮らすアメリカ人になっていた」と実感する。アメリカではトランプの登場で、市民の間に、これほどまでの分断化が進行しているのだ。
本書は、アメリカを信じて生きてきたミドル階級のアメリカ人が、トランプという特異な人物のために、人生の「目的と意味」について疑問を抱く過程を、彼の過去、現在、隣人、同僚、部下たちの人生を重層的に描くことで見事に浮かび上がらせている。
大統領選挙が終わっても、アメリカの人々は星条旗の下で、もはや一つにまとまることはないのではないかと絶望的な気分になってしまう。しかし、ブレントは「おまえはあの子を愛さなければならない」という父の言葉を思い出す。他者を愛すること。必要なのはそれだったのだ。このブレントの思いだけが唯一の希望である。
《「アメリカの悪夢」デイヴィッド・フィンケル・著 古屋美登里・訳/2860円(亜紀書房)》
江上剛(えがみ・ごう)54年、兵庫県生まれ。早稲田大学卒。旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)を経て02年に「非情銀行」でデビュー。10年、日本振興銀行の経営破綻に際して代表執行役社長として混乱の収拾にあたる。「翼、ふたたび」など著書多数。