ザ・キャバレー「栄枯盛衰」回顧録(2)高級ナイトクラブでピンク系に挑んだ

 社交場の王者として栄華を誇っていたキャバレー。しかし、そのキャバレーの牙城を崩さんと、二つの新業種が闘いを挑んでくる。それは「ホンネ」と「上品」という極端なジャンルであった。まずはホンネのほうから。

「昭和40年代(1960年代)くらいからですかね。キャバレーに対抗するためにピンク系が登場してきた。ピンクキャバレーです。キャバレー上がりの人が経営していた『日の丸』などがそう。当時は『しびれるキャバレー』なんて呼んでいましたね」

 もっとも今現在、一部店舗で見られるような過激なプレイは主に1980年代以降に発生したもので、吉田氏が言う頃のプレイは(今の感覚なら)かなりおとなしいほうだった。だが王道キャバレーからしてみれば、濃厚なサービスを提供するピンクキャバレーは異質でありながら脅威となっていく。

「キャバレーというのは、女の子がいて、ショーが見られて、ダンスもできる。言ってみれば総合デパートみたいなものです。それをするには大きなスペース、つまり大箱じゃなくてはいけない。しかし、その大箱に小箱で対抗するには何か付加価値が必要です。ピンクキャバレーはその付加価値を付けた。最終的に男性が女性に求めているものを考えれば、わかりやすい理屈なんですけどね」

 当時の吉田氏はピンク系の店舗にはライバル心はなかったという。しかし、ピンクサービスをつけた「キャバレー」は男性の支持を得て、正統派キャバレーの牙城に食い込んだ。

 一方、ピンクとは違って「上品」を武器に勝負を挑んだのが「ナイトクラブ」である。

「キャバレーはよくも悪くも大衆文化です。それを高級感、高級な文化としてイメージ付けしたのがクラブ。ホステスさんもキャバレーの子とは違っていた。というより、キャバレーに向かないような子を選んでましたね。あか抜けていて、上品で、おしとやかで、色っぽくて、さらに育ちもよさそうな─。店内の装飾も違っていました。極端な言い方をすれば、キャバレーの絨毯が1センチだとすると、クラブの絨毯は3センチだとか4センチ。フカフカな絨毯でグッと高級感を演出したワケです。これだけのことをやれば、小箱のハンデも見えなくなる。女の子も厳選された20~30人でいい」

 誤解がないように言えば、クラブのホステスよりキャバレーのホステスが劣っている、ということではない。それは店に客が求めるものによって変わるもの。「つまようじをくわえてくるような、気楽なお客さんもいる」(吉田氏)キャバレーには、大衆的なリラックス感が必要なのだ。この高級感・大衆感の差は双方の値段設定にも現れた。

「キャバレーは1万円でも飲めるけど、クラブは3万円以上じゃないと飲めないよと。この3万円という金額で高い=高級というイメージを付けることに成功した。そのための、フカフカの絨毯をはじめとした豪華な装飾なのですから」

 時代はすでに戦後ではなく、高度経済成長期を迎えていた。日本人の中にも、大衆的なものだけではなく、たまには高級なものをという気持ちが芽生えていた。

「クラブが出てきても、キャバレー自体は変わりませんでした。300人もホステスが入るような大箱に高級感は必要ない。女の子で足りないところはショーで補う。そのスタンスです」

 大衆文化の王道の面目躍如だが、一方でナイトクラブの人気も確実に増していった。こうして、夜の歌舞伎町はかつてない激戦区となったのである。

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