鎌倉幕府の時代になると、土地に関しても、大きな変化が現れる。河合敦氏が言う。
「平安時代の荘官たちの中には、荘園を守るために武装して武士になるものが少なくありませんでした。彼らは、荘園領主である貴族や皇族の権威に頼っていたわけですが、東国に源頼朝の鎌倉幕府が成立すると、頼朝の家臣=御家人になり、頼朝からその土地の地頭という役職にしてもらい、土地の支配権を保証してもらいます。これを本領安堵といいます。また、活躍した御家人は褒美として、新たな荘園の地頭職に任じられました。これを新恩給与といいます」
武光誠氏の鎌倉幕府の評価はこうだ。
「鎌倉幕府は、一番最下層の村落の小領主の権利を重んじて保護する、そして荘園ごとに領主が定めた法を守らせて荘園の内部のことには干渉しないという方針をとるのです。現代で言うなら、国の主権、内政には干渉しないで国々の上に国際連合を置いたように、当時としてはものすごくよくできた政権だと言えます。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも描かれているように、そんなきれい事ではないのが現実ですが、歴史の大きな流れの中で見てみると、権力者の勢力争いはあったけれど、比較的庶民の暮らしは安定していた時代です。中国から宋銭と呼ばれる貨幣が大量に日本に入ってきて、商業が盛んになり、そこで商品になるものを作れば儲かるというので、手工業も盛んになる。そうして日本の経済が大きく発展した、いい時代とも言えるのではと思います」
頼朝亡きあと、鎌倉時代に起こった大事件「承久の乱」のきっかけの一つになったかもしれないエピソードを河合氏が紹介してくれた。
「後鳥羽上皇の愛妾に亀菊という女性がいました。亀菊はもともとは遊女だったらしいのですが、後鳥羽上皇から荘園をもらったのです。ところがこの荘園の管理をしている地頭が荘園の税を払わないので、その地頭をクビにしろと鎌倉に言ったら、幕府はその命令を拒否したのです。朝廷の権威の復活を目指していた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を倒そうと、北条義時追討の命令を全国に出し、承久の乱が起こったのですが、亀菊の一件もその動機の一つになったのかもしれません(笑)」
鎌倉幕府は、後醍醐天皇が呼びかけて、幕府側から寝返った足利尊氏が京都の六波羅探題を攻め、新田義貞が鎌倉を攻めて、鎌倉幕府はあっけなく滅ぶことに。
その後、後醍醐天皇による建武の新政がわずか2年余で終わり、足利尊氏が室町幕府を創設、南北朝時代へと時代は移る。
「室町幕府も鎌倉幕府と同じように全国に守護を置いて、国ごとに武士たちをまとめていましたが、南北朝時代には、敵の南朝方につく武士がいたので、尊氏は、半済令という命令を出します。これは、その国の荘園、公領の年貢の半分を守護が取っていいというもの。守護はそれを自分に従う武士たちにバラまきました。結果、守護から税を受け取る武士たちは、次第に守護の家臣のようになっていき、守護は強大化し、守護大名と呼ばれるようになります。
南北朝を統一した3代将軍足利義満は強くなりすぎた守護を武力討伐するなどして、その勢力を弱めました。しかしその後、6代義教が殺され、さらに8代義政の跡継ぎ問題などが起こると、守護もまた互いに対立することになる。1467年から11年も続いた応仁の乱のように全国規模の内乱状態になって、結果的にはその勝敗も不明なまま、幕府の権威は失われ、守護大名も没落して、新たに武士たちが領地を争う戦国時代に突入していくのです」(河合氏)
戦国大名の発生と農民たちの変化を武光氏は、次のように説明する。
「守護大名の領地の中で国人と言われる2000〜5000石くらいの領地を治める有力な武士が並び立って勢力争いをしていき、やがて1国単位で支配する戦国大名が登場します。この時期の荘園では、例えば、琵琶湖の竹生島の対岸辺りにある菅浦荘という小さな村で、そこの農民が土地を守るために、村の若者たちがこぞって命がけで領主や他の村と戦ったという記録が残っています。武士の保護を受けられなくなった農民たちは団結して戦うようになり、農民自身が自治をする村落が出現してきます。こうした村を『惣村』といって、村人はルールを自分たち自身で決め自律して村を守ることになっていきます」
戦国期になると、荘園は戦国武将たちによって武力で奪い取られ、貴族たちの荘園はどんどん少なくなっていく。
豊臣秀吉の天下統一によって戦国時代が終わると、太閤検地が実施される。元国税調査官の大村大次郎氏は、税制の観点から太閤検地をこう分析する。
「鎌倉時代から江戸時代までの間で、太閤検地ほど精密に農地を調査したものはなく、画期的なものでした。戦国時代の田畑は、元々、貴族の荘園だったものを武家が横領したり、在所の富豪が管理していたり、誰のものかわからなくなっているものも多かったので、現在誰が耕作しているのかを明確にして耕作者、つまり〝納税者〟の名義を整理しました。こうして当時、農地の大部分だった荘園の実際的に領主だった地頭や荘官などのいわば中間搾取層を排除したのです」
河合氏が引き取って言う。
「秀吉は、太閤検地の際、土地の直接耕作者を検地帳に明記し、農民に対する土地の権利を強化しました。また、村にいた武士たちを城下町に移し、村には基本的に農民しかいないようにする『兵農分離』が行われました。そして農民からは刀狩りで武器を取り上げて武士にならないようにしたのです。なお、惣村の名残で、年貢は村ごとにまとめ、払えない人がいても、それは村が共同で責任を持つというように、村の自治もある程度認めながら、徴税の仕組みを整備したという点でも画期的な改革だったと言えますね」
太閤検地によって荘園制度は消滅する。その後の江戸幕府も太閤検地の制度を引き継ぎ土地は農民のものになっていくが、江戸幕府は税収確保のために田畑永代売買の禁止令などを出して土地売買の自由は奪われる。明治維新になって地租改正令で自由化され、さらに第二次大戦後に寄生地主を排除する農地改革で、ようやく小作農が土地を得て自作農になるのである。
土地所有を巡る闘争の日本史は、土地が常に、歴史を動かす起爆剤であったことを教えてくれる。
中大兄皇子も蘇我入鹿も、源頼朝も後鳥羽上皇も、そして豊臣秀吉もまた、「土地」という魔物に魅入られ、翻弄された生涯ではなかったか?
ニッポンの土地とは、いったい誰のものであったのだろうか‥‥。.
河合敦(かわい・あつし)65年、東京都生まれ。多摩大学客員教授。歴史家として数多くの著作を刊行。テレビ出演も多数。最新刊に「徳川家康と9つの危機」(PHP新書)。
武光誠(たけみつ・まこと)50年、山口県生まれ。東京大学大学院国史学科博士課程修了。文学博士。専攻は日本古代史、歴史哲学。「荘園から読み解く中世という時代」(KAWADE夢新書)など、刊行書籍340冊以上。
大村大次郎(おおむら・おおじろう) 国税庁調査官を退職後、フリーライターに。「お金の流れで読む日本の歴史」(KADOKAWA)「『土地と財産』で読み解く日本史」(PHP研究所)など著書多数。