綿矢りさが選ぶ「人生が変わる大人の恋愛小説」(1)ライフステージで読み方が変わる

 オミクロン株のニュースが流れる中、街はクリスマスや年末年始の準備を楽しむカップルで賑わう。おじさんたちにとって恋愛は“遠い日の花火”なのかもしれないが、せめて小説の中だけでも恋愛にどっぷりつかりたいものである。17歳での衝撃的なデビュー以降、さまざまな愛の形を描いてきた芥川賞作家が、大人が読む恋愛小説を語ってくれた。

 恋愛小説が大好きです。特に10代、20代の頃は、恋愛小説ばかり読んでいました。当時は胸がキュンキュンしたのですが、大人になって読み返してみるとずいぶん印象が違いました。業が深いというか、怖い恋愛が多いんですね。

 恋愛小説との距離感が、年齢とともに変わってきたように思います。主人公が恋愛の深みにハマっていく話も、若い頃は「ああ、濃い恋愛やなぁ。ちょっと憧れるわ」と思って読んでいました。ところが、いま読むと「けっこう怖い話だったのだ」と気づきました。ひとりの人を好きになるだけで、こんなにも人生が狂ってしまうのか、と。もちろん、フィクションなんですが、「たいへんやなあ」と、ため息をついてしまいますね。

 思春期の頃は「私もいつかこういう恋愛をするのだろうか」と、憧れと共に将来の自分と重ねるように読んでいました。恋愛至上主義というか「恋愛が人生の中心でもいいじゃないか」という気持ちもありました。

 その後、大学を卒業した頃には、私はすでに自分でも恋愛小説を書いていましたから、小説と現実はかなり違うということに気づきました。「フィクションを自分の人生になぞらえて考えるのはあかんな。いままで私は間違っていた」と思いました。

 結婚してからは、冒険小説や時代小説などのように、ジャンルのひとつとして恋愛小説を読むようになりました。それは自分で書く時も同じですね。

 結婚、出産、子育て。ライフステージが変わると恋愛小説観も変わります。年齢によって読み方や距離感が変わってくるところも、恋愛小説の魅力かもしれません。

 今回ご紹介する5作品に共通しているのは、恋愛だけで終わる恋愛小説ではないことです。年齢を重ねてライフステージが変わっても、恋愛の本質に忠実であろうとすると、やっぱりドロドロしてきます。それが小説の中で人生ドラマとなっていきます。ただ、ドロドロしているだけじゃなく、人生の他の部分とも結びついていきます。

 5作の中には、11月に99歳でお亡くなりになった瀬戸内寂聴先生と、私が30歳を超えてからよく読むようになった宇野千代先生の作品があります。おふたりとも恋多き女と世間から見られたところが共通しています。

 しかしおふたりは、恋愛に取り憑かれて衰えていくのではなく、むしろ恋愛を活力にして元気に美しくなっていかれた。もしかすると、そこには芸術のための恋愛ということもあったのかもしれないと、作品を読みながら想像します。

 燃えるような恋をして、それを芸術に昇華させるという生き方は、私には難しそうです。宇野先生や寂聴先生の生き方に憧れるけれども、それをマネすることはできません。

 おふたりは、大正や昭和の厳しい時代を生きてきたということもあるでしょうが、その作品には愛し愛される「自分」というものに確固たる自信があるのを感じます。小説を読んでいると、その自信や生命力が自分にも注ぎ込まれるようで元気になります。

 私も含めて、現代の若い作家は、プライベートで強烈な体験をして、それを小説にしようという意識はありません。激しく内に秘めているものがあったとしても、あからさまにしない、公にしないという人のほうが多い。現代は作家のプライバシーが守られているともいえますが、その分、作品から溢れる情熱も抑制されているかもしれません。

 宇野先生や寂聴先生、そして寂聴先生の小説に登場する岡本かの子(芸術家・岡本太郎の母)。みなさん、小説を書くエネルギーと実生活でのエネルギーが強く結びついています。寂聴先生も「人生すなわち小説」みたいなところがありました。それは私たちの世代の作家にとって、驚きであり憧れです。

綿矢りさ(わたや・りさ)84年京都府生まれ。早稲田大学教育学部卒業。01年「インストール」で文藝賞を受賞しデビュー。04年「蹴りたい背中」で芥川賞を受賞。12年「かわいそうだね?」で大江健三郎賞、20年「生のみ生のままで」で島清恋愛文学賞を受賞。『勝手にふるえてろ』『私をくいとめて』など著書多数。

*「週刊アサヒ芸能」12月30日・1月6日号より。(2)につづく

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