“関西の女帝”といえば上沼恵美子。平日昼の帯番組「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」(ABC・テレビ朝日)のイメージが強いが、メディアで度々取りざたされるのは「M-1グランプリ」絡み。07年に大会委員長だった島田紳助から初の女性審査員を頼まれて3年間務め、一度は身を引いた。しかし、ダウンタウンの松本人志から強い依頼を受けて、16年に復帰した。
この間、吉本芸人と衝突することがしばしば。代表的な事件は18年、優勝を逃したとろサーモン・久保田かずのぶとスーパーマラドーナ・武智が、決勝戦の直後に酔って生配信した動画で、本番中に不愉快な発言をした上沼に暴言を吐いた。松本は後日、「彼らは何より勉強不足ですよね。上沼さんという人がどれだけの人か、本当にわかっていない」と、後輩2人を戒めた。天下の松本が上沼の肩を持ったことで一件落着。審査員降板の事態は免れ、20年まで務めている。
その20年6月、ラジオ「上沼恵美子のこころ晴天」(ABCラジオ)で隔週レギュラーだったキングコング・梶原雄太の番組卒業が、突然上沼の口から発表された。2人は25周年を迎える長寿番組「快傑えみちゃんねる」(関西テレビ)でも共演。上沼の寵愛ぶりは有名で、100万円もする高級腕時計のロレックスを贈ったほどだ。だが、梶原は体調を壊して番組を降板。翌7月、番組も幕を下ろした。
吉本芸人とつくづく相性が悪い上沼だが、およそ40年前の若かりしころ、その吉本からスカウトされていたというから驚きだ。
70年代、実の姉と組んだ女性漫才師「海原千里・万里」は、弱冠10代にして類まれな才能を発揮。上方漫才界のトップに上りつめると誰もが踏んでいた。そんな矢先の22歳で、8歳上の関西テレビのディレクター・上沼真平さんと電撃結婚。芸能界を引退した。しばらくは子育てに専念していたが、28歳のときに「バラエティー生活笑百科」(NHK総合)で復帰。育児に支障が出ない程度と、出演はこの1本だけにとどめていた。
「その名相談員ぶりを見て獲得に動いたのが吉本でした。屈指の敏腕興行師だった故・林正之助会長がその才能を見初めて、『吉本に来てほしい』と関係者を通じて懇願。ところが上沼さんは、『何を寝言ゆうてんねん』と意に介さず、3回ほどあった連絡をNOで押し切りました」(芸能関係者)
それでも「生の林を見てください」と引き下がらないスタッフに根負けして、大阪・難波にあった吉本の本社ビルに足を運んだ。そして、すでに高齢で杖をついていた林会長から異例の直談判を受けるのだが、それでも家事優先、仕事はNHKだけという意志は変わらず、平行線のまま決裂した。
のちに、正式に芸能界復帰。90年代には「NHK紅白歌合戦」の紅組司会を務めて、国民的司会者の位置に上りつめた。2000年代には長者番付で関西の芸能人トップに輝いた。
いまだに西のテレビ界でトップに立つ女傑。20代で吉本からの強いスカウトを蹴ったからこそ、天下を獲れたのかもしれない。
(北村ともこ)