放送コードはもとより著作権の意識すら希薄だった昭和の時代。海を渡った台湾に日本の国民的コントグループを名乗る集団が出現した! そのメンバーの1人、つまみ枝豆(63)がニセモノにデッチ上げられた顚末を振り返る。
「あの頃は『台湾で天下取れるんじゃ』って、よくタカ坊と話したもんです。なんせ、転んだり壁にぶつかるようなベタな動きだけで、劇場のお客さんは大爆笑でしたからね。ただ、最初に断っておくと、僕らも被害者なのよ。そもそも、台湾で『ザ・ドリフターズ』のニセモノになるなんて聞かされていなかったし‥‥」
たけし軍団に加入前、相棒のガダルカナル・タカ(64)と「カージナルス」で活動していた1980年頃まで遡る。世はまさに漫才ブームの真っ只中。稼ぎ頭だった「星セント・ルイス」が第一線から退いたことで、当時の所属事務所の経営は火の車に。起死回生に躍起となる事務所に舞い込んできた仕事こそ、〝偽ドリフ〟公演ツアーだったのだ。
「『青春の丘の上』などで知られる大ヒットスター歌手・神戸一郎さんの台湾ツアーに、15人くらいのダンサーと一緒に帯同しました。僕とタカ坊の仕事は、衣装替えなんかのセッティングの時間にステージに出て場を繫ぐコント。台湾で爆発的な日本ブームが起きていたから、『愛染かつら』『座頭市』『岸壁の母』をコンセプトにしたものをやりました。それに加え『「ヒゲダンス」もやってくれ』って頼まれたんです。
当時、台湾でも海賊版の映像が流れていて、ドリフは大人気だった。『勝手にやって大丈夫か』と思いましたが、会社の判断はGO。タキシードを着ちゃえば現地の人は本物と見分けがつかないから、興行でやる分には大丈夫と判断したんでしょう」
数週間の練習期間を経て、約1カ月半にわたる台湾ツアーがスタートした。だが、公演初日の高雄の劇場に到着するや、驚きの光景を目の当たりにすることになる。
「劇場に貼られた公演のポスターに、本物のヒゲダンスの写真が使われていたんです。なぜかメインの神戸さんが隅に追いやられて(笑)。『あれ?』って思ってワンさんっていう興行主に確認したら『とうとう台湾にドリフ来た。一緒にアナタたちとヤる』って言うわけ。だから、本物がいると思うじゃん。青い顔して、挨拶させてくれって楽屋を訪ねても誰もいないのよ。そしたらワンさんが『アナタたちがドリフターズよ。台湾ジョークね』って。ホッと一安心どころか『ふざけんなよ、この野郎』ですよ(笑)」
1日4公演を週6日こなして、台南、台中、台北と北上する過酷スケジュール。500〜1000人規模の劇場は毎回満員で、回数を重ねるごとに腕を上げたコントに、観客は抱腹絶倒。立ち見まで出る盛況ぶりだった。しまいには、現地のテレビ局や映画制作会社から出演オファーが届くことになる。
「もちろん『偽ドリフだからダメだろう』と全部断りました。ワンさんからは『お金になるから出るべき』って最後まで説得されたけどね。好評で、一度帰国してから2回目のツアーで再び訪台した。しかも、今度は僕らがメイン。コントの合間に、現地の歌手や芸人が場を繋いでくれました。有名どころだと白冰冰(パイピンピン)がいたのを覚えてる」
ところが、2回目のツアーを終えて帰国した一行は急転直下、天国から地獄の底を這いずり回ることとなる。
「帰国して間もなく、社長が青い顔して僕らにブツブツつぶやくんです。『ワンさんに金を持ち逃げされた‥‥』って。詳しい契約内容は知らされていないんだけど、どうやら台湾までの渡航費や宿泊費なんかは全部事務所が立て替えて、後から精算するような取り決めだったみたい。台湾人をダマしていたつもりがダマされるなんてね‥‥」
海外でブレイクどころか、数千万円規模の負債を背負った事務所はほどなくして倒産。それでも、捨てる神あれば拾う神あり。
「事務所のスポンサーをしてくれた人の誘いで、新宿に『ポプラ』という名前の飲み屋をやることになりまして。そこが軍団の溜まり場になった縁で、殿の草野球チームに参加して、拾ってもらうことになります」
笑いあり涙ありの偽ドリフだが、実は本家本元にも報告済みだった。
「志村けんさんと加藤茶さんに、それぞれ別の仕事でご一緒した時に打ち明けました。おふたりとも『本当かよ、そんな話』なんて大笑いでした。それだけ、おおらかな時代だったのかもしれませんね」
*「週刊アサヒ芸能」12月16日号より