6億円馬騎乗による「電撃和解」。だが、コトここに至るまで、さまざまな苦難が降りかかったのも事実だ。
武はデビュー3年目の89年にリーディングトップの座を得ると、91年の2位を挟んで00年まで独走。長い黄金期を築いた。さらに03年から05年にかけては3年連続で年間200勝超えという離れ業を達成し、黄金期にあって、まさに絶頂を迎える。その後、近藤氏との決裂はあったものの、すぐに成績が下がることはなく、08年までリーディング1位を続けていた。
しかし10年3月の毎日杯で、惨劇が襲いかかる。騎乗したザタイキがレース中に故障、芝に投げ落とされた武は鎖骨と腰椎の骨折などで長期休養を余儀なくされたのだ。
「本来なら1年近くかかる大ケガでしたが、他の騎手が活躍するのを見て焦りだしたのか、完治しないまま4カ月後には戦列に戻ってしまいましたが、それがまずかった。肩の可動域が元に戻らないままだったため、馬をうまく制御することができないうえに、追い出してからも迫力がない。この年は結局、69勝止まりでした」(専門紙トラックマン)
この10年以降、5年連続して二桁台の勝利数にとどまるなど、低迷期へと突入。その大きな原因の一つは、社台グループの馬に乗る機会が激減したことにあった。社台は外国人騎手の重用などに舵を切るが、
「ユタカにとってこの2010年代前半ほど、苦しんだり悩んだりしたことは他になかったと思います」(専門紙トラックマン)
ただ、不調の原因は落馬負傷と外国人騎手の活躍によるものだけではなかった。
「騎乗スタイルの変化です。乗ることの多かったサンデーサイレンス産駒の差し、追い込み勝ちに味をしめたのか、脚をためて末脚の切れで勝負をすることが増えました。そうして決まると鮮やかに見えますが、末脚不発で取りこぼすこともしばしば。それでいつしか『ため殺しのユタカ』と揶揄されるようになってしまった‥‥」(専門紙トラックマン)
事実、16年の天皇賞・春をキタサンブラックで逃げ切るまでは、JRAのGⅠで逃げ切り勝ちはない。それまでの69勝は全て、差し、追い込みによるものだった。そのキタサンブラックでは、同年のジャパンカップ、翌年の有馬記念でも逃げ切り勝ちを収めている。
「これを機に積極的な競馬が増え、自在性に富んだ騎乗が見られるようになってきました。もちろん『ため殺し』などという声も聞かれなくなった」(兜氏)
復活の契機となったのがキタサンブラックの存在だったとすれば、そうした有力馬をそろえるエージェント(騎乗依頼仲介者)の存在も大きかろう。