草いきれ立ち込める戦場跡には、いまもかすかな怨念が残っている…。そんな想像をかき立てるのが、戦国時代の合戦後に行われた「死体処理」のドラマだ。数千、あるいは万単位の戦死者を前に、領主も兵も農民も僧侶も、それぞれの事情と思いが交錯しつつ、一夜のうちに後始末を急いだとされる。
合戦の勝敗が決するとまず行われたのが「首実検」。討ち取った敵将の首を甲冑櫃(かっちゅうびつ)に詰め、領主に勝利を報告するのだ。同時に胴体は放置され、武士たちは次の布陣や物資回収に奔走した。
放置された死体は、地元農民や商人の「戦利品漁り」の対象となった。甲冑や兜、刀を剥ぎ取り、それを売り飛ばすことで生活資金にあてるのは、戦場となって荒らされた田畑の補填にもなったという。
その後、軍に従う土木要員「黒鍬組(くろくわぐみ)」が動員される。もともと架橋や陣地築造を担う専門集団だったが、合戦後は死体の一括埋葬を請け負ったのだ。彼らが鍬をふるい掘った大穴に、敵味方を問わず遺体をまとめて投じ、素早く土をかぶせる。これが最も一般的な処理法だったと言われている。
一方で、穴を掘る余裕もないほど死体が山積した場合は、沼や川に遺体を投げ込むことも珍しくなかったという。湿地帯の多い日本ならではの、やむを得ぬ「水葬」というわけだ。
土中への埋葬の際には、合戦に随行した僧侶、いわゆる「陣僧(じんそう)」や地元寺院の僧が念仏を唱え、回向を行う例もあった。領主や遺族の意向で、後日あらためて塚や五輪塔を建てるケースもあり、関ヶ原古戦場の石田三成塚などはその代表例として知られている。
もっとも、すべての戦死者が丁重に供養されたわけではない。敗者側の遺体は地元住民にすら見捨てられ、野ざらしのまま野獣やカラスの餌食となることもしばしばだった。古語で「葬(ほうむ)る」は「放(ほう)る」が語源とも言われ、文字通り放り捨てられた死体もあったのだ。
こうした「過酷な後始末」は、戦国期の苛烈さを象徴しているといっていいだろう。しかし同時に、黒鍬組や陣僧らの活躍には、人としての情や慈悲の片鱗も伺える。彼らは「祟り」を恐れつつも、「死者をきちんと弔いたい」と願ったのではないか。
もし古戦場を訪れる機会があったら、小高い塚や朽ちかけた石碑にもぜひ目を向けてほしい。そこには名もなき足軽たちの最期の声と、遺族の切なる祈りが、いまも風に揺れているはずだ。
(ケン高田)